坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

無底船、大海に浮かぶ — 掌(てのひら)とヘレン・ケラーと空手と

 〈手の内〉というのは、たとえば将棋で、相手方の駒を奪って、自らの手元に置いて、必要があればいつでもそれを使えるようにしておくことを言います。
 また剣術では、剣を、主として両手で握って操るための両掌の使い方を〈手の内〉といって、大切なこつの一つにしています。
 似た用い方で、掌(たなごころ)を指すように、と、人の心や物事の推移をとらえることを形容します。そうした〈手の内〉や掌(たなごころ)は、ごく具体的に身体の働きのことだったり、時にはむしろ精神的な働きのことだったり、時には二つが重なり合っていることがあったりします。


 さて、他の機会にも触れたことですが、昨年(2014年)の10月初旬の、私たちのごく内輪な武道の稽古の最中に、〈手の内〉が大切ならば〈足の内〉はどうなのか、とふと思ったのでした。(足の内などという言葉はありませんが。)
 というのも、〈手の内〉や掌(たなごころ)については、練習工夫を重ねてきた武道・武術のことでも、また言語とのかかわりのことでも、ずーっと気になり、様々私なりに探究していたのでした。
 見えず、聴こえず、話せず…のいわゆる三重苦(ハンディキャップ)のヘレン・ケラーが先生のサリヴァンの導きではじめて「水(ウォーター)」と、なかば呻くかのように何年振りかでようやく言葉を発したあの事件でも、ヘレンは掌をポンプ式の井戸から流れ落ちる水にあてて、サリバン先生は「水」の指文字をそのヘレンの掌に懸命に描き続けていたのでした。
 一般に、ものごとを確実にとらえること、つまり理解することを把握といいます。そのことについても、私は二十歳前後から折りに触れて考え巡らせてきました。(このことでは英語やフランス語でも共通したところがあるようです。それとも明治以降に西欧のそうした発想が日本語に溶け込んだのでしょうか。)
 私は、最近は〈手の内〉あるいは天に向けた掌を謳うリルケの詩と通じる身体技法を工夫して、多くの人々にしてもらっています。これは、たとえば、チベットや日本の密教の作法や、沖縄空手の型にもヒントを得たもので、とても簡単のようでいて、不思議な力強さを約束する型です。わたしはこれを〈あまうつし―天映し〉と名付けました。



 さて、そのような〈手の内〉があって、なぜに〈足の内〉が問われないのか…、稽古の最中にそう感じたとき、一瞬にして〈足の内〉があるはずだ!とひらめいたのでした。先述のように〈足の内〉などという語は聞いたことがありませんが…。
 この〈足の内〉の発想によって、様々な身体的、精神的な変化がもたらされました。
 それについては前にも書いたのでここではごく簡単に書きます。前よりもっと肩の力が抜けやすく、手の動きが自由になった。全身の移動が、つまり足運び、ステップが自由に軽くなった。足が前よりも温かくなった。たとえば荘子が理想とした呼吸法―眞人は踵で呼吸する―が、ごく自然に実感実現できるようになった…したがって、日頃も稽古している合気道や合気術、剣術などをヒントに工夫した〈やわらげの武術〉の技や動きが格段によくなったと感じる。気合い(発声と共に剣を振る)が自分でも驚く程出るようになった。ある人がそのビデオを見ても、その気合いが腹にずんと響いた、と言ったことがあります。その他、ほとんど全ての面で身体技法の工夫にとても大きな影響を与えはじめていると思います。


 そのような変化と共に〈無底〉の境地が自ずと開かれました。私の身、存在に〈底〉がないのではないか? 調べてみると〈無底〉というのは仏教(禅)にある言葉でしたが、私はほとんど知りませんでした。同じような意味で〈無底船〉という言葉も仏教事典に載っていました。
 詳しい由来や意味は、今、手元に資料もなく分かりません。けれど〈無底船〉は、私が〈足の内〉を通して実感、自得する我が身の有様、状態をあらわすのにぴったりです。
 無底船―そこなしのふね―を、この世―私たちが生き、さんざめき、やがて消え去る大海か大虚空界―に浮かべて棹さしてゆく…すると、意外なことにもなりました。少年時代のある時、世界が〈光〉と化したか、と思うような意識体験をしたためもあり、私は永くいわゆる〈サトリ〉とか〈解脱〉を追い求め、こだわる気持ちが強かった。それはある意味で私の日々のメインテーマとなり、そのためにとても苦しんだりすることもありましたが、それも夢幻の泡のようになって消えてしまったかのようです。
 そのような〈無底船―そこなしのふね〉の実感を得てからのある日の朝の目覚めかけの時、私は自分の意識がこれまでにない状態になっているのに気付きました。
 意識について気付く…これは大体、理屈からいうと矛盾を含んでいるし、とても言葉にしにくいことなのですが、その時、自分の前にピュアで透明な光を含んだ闇のような空間がひろがっているのです。それともそれはまだ閉じている私の眼球の内なる空間だったのか定かではありません。それは極微の粒子が細かく振動しているような、あるいは何か意識の波動のごときものか、とも一瞬感じられました。後で思ったのですが、その時に何も自分の能力や力でそうなったとは全く感じられません。ある朝の目覚め際のほんの数秒のことでした。


 私は、少年時代からインド思想に触れ、宇宙意識―ブラーマンを直接体験するか直感する哲人達がいると聞かされたり、読んだりしました。それは普遍的な意識といわれたりします。ブラーマンは仏教のいう〈真如〉とか窮極的な存在様式である如来とは異なるというのが通説ですが、私が仏教を学んだ東洋思想・仏教思想の学者玉城康四郎先生はブラーマンと如来は同じものである、と明言されています。これは何も東洋に限ったわけでなく中世ドイツの神秘家エックハルトも非常に近い直接体験のことを述べています。
 私はまた、少年時代からフランスの作家ロマン・ロラン(小説『ジャン・クリストフ』で著名)の書いたラーマ・クリシュナやヴィヴェーカナンダの伝記を読んだり、ヨーガの瞑想家の解脱に触れたりし、瞑想や行法を行なっていたこともあります。
 その朝の体験は、ブラーマンの一陣の風に一瞬でも吹かれたか、それとも自分が純粋エネルギーと純粋意識の融合した如来の〈風〉のごく微小な一吹きとなったか…と感じたのでした。
 こうしたことはある意味ではきわめて個人的な感慨、あるいは人によっては気の迷い、妄想とさえ言うでしょう。ですが、私としては先にも述べたように永い〈サトリ〉への道、それへのこだわりが消え去った、と実感したのは事実という他ありません。それは決して抽象的なことではなく、この身、このイノチで如実に感得した、と感じています。


 それ以来、たとえば日常でも、朝早く健康で起床したとき、朝の大気を浴びるときに感ずるあの爽やかさよりも、もっと深く、静和にピュアな気を全存在で、力強く、しかし力みもなく感じているときが増えたようです。
 既述のように、それに伴い、私の身体技法や武道(合気道や剣術など)も変革されました。
 そして、気付くと、自らの身体や他の人の身体についての〈読み〉が深く鋭敏になりました。自ずと、これまではっきりしなかった〈ツボ〉がとらえられてきました。これは今のところは主として身体の動きや集中とリラックスに関するものです。それは既成の東洋的なツボともほとんど全くといってよい程異なるものです。


 この身をつつみ運びはじめた、こうしたいわば〈風光〉を、私の50年にわたる身体技法、武道、瞑想などの体験のプロセスを、様々の方、若い人に伝えたいと思っているところです。
 それには、稽古場や講習会などに参じてこられる人々との〈出会い〉を大切にしてゆくことと肝に銘じております。
 その意味では、私個人としては、これまでのような個人の自己にとらわれた探究は終わったとしても、実はここからが新しい出発なのだ、新しい〈自分 ― 人と共に、自然と共にある自分、あるいは人間の中に、自然の中にはじめからあった自分〉が今、生まれたのだ、と実感しています。
 いよいよ油断なく勇躍進んでゆきたいと思っております。
 

 私は今、身体技法・∞気流法の講習会のためパリに滞在しております。30年来の受講者の一人であるクロードとエルベ夫妻の家の一室に滞在し、これを書いております。
 昨年の10月初旬の〈足の内〉の実感、そして〈無底船〉の気付き以来はじめての外国ですが、〈そこなしふね〉での旅はこれまでと全く異なる様相を呈していると感じます。といって、旅先で日々行なうことや出会う人や、目にする行きつけの街やレストランなどの対象が特に以前と変わった、ということではありません。それらとの出会い方そのものが変化したと実感されるのです。
 とても懐かしく、まるで昔なじみの街のような人や物。それでいて、スリルのある冒険をしているような新しさ…。
 けれど考えてみると、私たちの〈イノチ〉が元々懐かしさと新しさ、親しみと冒険を織りなしているものではないでしょうか。それが本来の〈イノチ〉の相なのではないでしょうか。そのように感じられるのです。




2015年4月3日〜6日フランス、パリの気流法ワークショップより



2015年4月3日〜6日フランス、パリの気流法ワークショップより



(続く)