坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

〈足の内〉にこそ原郷が ―〈うづたま〉によって気付かされた―・後編

結局、生きるものは巡り、うづ巻き、円転している
 さて、先の四つの〈文法〉に沿って色々と工夫し、稽古し、人々にも勧めてきたのですが、実は最近、もう一つとても大切なことに気づかされました。
 それは、それらの四つの「身体の文法」は、互いに別々の原則ではなく、実は通底している、ということでした。
 それは何か。
 四つの文法すべてに巡り、円転、うづ、螺旋、循環などの運動の曲線的構図のようなものがある、ということです。
 bの〈息〉では呼気…吸気を繰返していて、そこに時間的な循環がとらえられます。(時間的な巡りなのですが、円環として空間的にも心の裡にとらえられ得るわけですが。)
 dの〈動作は流れのごとく〉は、実践上、〈流れ〉を円に沿わせるように巡らせることは、たとえば、スポーツや武道などで、勧められます。そうすることで激しい動作の反動を、ショックを減らして吸収し、しかも有効な作用を継続することができるからです。そのように〈流れ〉と〈巡り〉や円転は親しい、といえます。
 cの〈気〉は、経絡という道筋に沿って体中に流れ巡ることになっているし、その巡りをよくすることが建康の元であるばかりでなく、人と宇宙の一体性に基づく、いわゆる〈解脱〉や〈悟り〉のためになる、とされてきています。〈気〉の円転と巡りは、ヨガ(この場合は気をプラーナという)でも道教の行でもとても大切にされます。
 円転との関わりが一番分かりにくいのがaの〈重力〉の項です。けれど、これは立っている人に垂直方向に下方へゆく働きを重力とすると、同時にそれに対する〈反力〉のような動向が想定されます。そうでなければ人体もたちまち大地に同化する―つまりつぶれてしまうでしょう。ですから通常、上昇の力と下降の力が同時に働いているのです。そしてこの一見真逆の動向は人体という生きて丸みを帯びた塊では、まるで円転するように同等に働いてゆくことになります。たとえば下図のように。


人体に働く上昇と下降の力のイメージ


 彫刻家ロダンの秘書をしてその影響も受けていたドイツの詩人リルケ(1875〜1926)は、身体と宇宙についてとても鋭敏な、精妙な観察を直観的な表現で幾つかの素晴らしい詩にしたのですが、その中の一つで呼吸の過程を〈対重〉(釣合い重り、平衡力)と呼んでいます。垂直に下へと働く重力の作用に対して、釣り合いをとらせる作用が呼吸にある、と言うのです。彼は、それによって人間が見たり、そこで活動できる空間あるいは〈場〉が産まれる、とも言うのです。
 ここで注目したいのは、呼吸という時間的な巡りが、エネルギーが昇降する空間的な巡りと密にかかわって融合しているかのようになっていることです。
 ここにabの呼応、あるいは融合の作用があるのですが、実はabcdも悉く互いに呼応、協応している、ということは確かでしょう。少なくとも身体技法をある程度続けて行なって深めてゆくとそういうことが如実に実感されてゆくはずです。


〈うづたま〉―渦玉―の技法の発見
 私が四つの基本的文法には、巡り、円転、渦などのいわば共通分母があると気付いたのは、実は、両掌に円球をやわらかく持ったり挟んだりして行なうエクササイズを最近になって工夫し直してから間もなくでした。(註2)
 〈うづたま〉(註3)―渦玉と名付けたこの技法については、もう二十年も前に色々と行なっていてその働きが少し分かっていたのですが、最近改めてその、とても強い、根源的といってもよい作用力が、実践の中で実現されてきたのでした。(註4)

 (註2) こうして、円転や流動、巡りなどの運動の過程の形がとらえられると、そこに必然的にリズムとか拍子、間(マ)、連続性といった〈時間〉に関することが見えてきます。そのことは別の機会に触れたいと思います。
 (註3) 現代訓みでは〈うずたま〉ですが、敢えてやまとことばに従って〈うづたま〉としています。
 (註4) 実はこの三十年以上、最も頻繁に行なってきた∞(無限記号あるいは8の字状の動き、メビウスの環状の動きでもある)の動きもまさに〈巡り〉の動きなのですが、この〈うづたま〉の技法にそのまま取り入れられています。

  
〈うづたま〉の技法によるエクササイズの一部


 〈うづたま〉の技法そのものについてはここでは詳しくは述べられませんが、大ざっぱに次のような特徴というか、身心への働きかけがあります。
 初級としては、玉は実際にプラスチックなどの大小の円球やボールを手にします。そうして8の字状や∞(無限記号)状に律動的に動いてゆく。すると、理念的に完全な球(キュウ)を前提にして作られているにしても、不完全でしかあり得ない手の中の玉に、様々な動きや変化のめりはりが映りこんでゆくのです。〈うづたま〉のうづは、不安定な動きや変化を代表する働き。たま(玉、円球)は、その反対に静止、完全、安定の相。この矛盾する二局面を一挙にとらえ、現前させてゆく技法です。
 言い換えれば、玉と共に動きつつ絶えずバランスをとってゆくことを目指すわけです。バランスをとりつつ動いてゆくのです。生物学では一つの生物がバランスをとり同一性を保とうとするためにこそ絶えず変化してゆくことを〈動的平衡〉といったりしますが、〈うづたま〉の目指すところはそれに極めて相似しているでしょう。常にバランスをとるということは、変化しつづける状況の中で意識が一瞬一瞬新しくなることです
 これはあくまで〈うづたま〉の基本、出発で、これから様々に深化、進化してゆき、色々な局面、たとえば武道の術や瞑想、身体技法の各ジャンルの実践の局面に活かしてゆけます。〈うづたま〉については、別の機会にその実践法と理論を説明したいと思います。


 良寛さんは、子供達との手まり遊びをこよなく好んだ。
 「こっちがまりつき そっちが歌う
  こっちが歌って そっちがまりつく
  うっては離れ うってはくっつき
  時のたつのを忘れてる」


〈足の内〉が私の存在(イノチ)の様相を開いてゆく
 私がこの〈うづたま〉の技法に新たに気付き、それから多少、紆余曲折しつつ工夫、試行を繰返していた時に、先に述べたような〈足の内〉がわかったのでした。繰返しますが、それは〈足の内〉という言葉でなければ感得できないことでした。 

 その〈発見〉で具体的にどんなことが起ってきたか、未だ進行の真っ只中ですが、少し述べてみます。
 まず、身体上の現象をあげると、足首から先が、気が付くと、快く適温の足湯に浸っているかのようになっていることが多い。そうすると足ばかりでなく、全身の血行がよくなっているのか、身体全体が壮快な時が前よりも増えました。気持ちも落着きやすく、意気が深まり、集中力も養われてくるようです。
 次に、これは〈足の内〉が閃いたその時から、合気道とやわら(私たちはやわらげの武と呼んでいる)と剣の動きが、次元が変わったように柔軟に自由になり、これまでと比較してずっと有効な技になったようです。稽古の人たちにもそのように見え、また私の技を受けた感じも随分変わったと言います。ここでいうやわらや合気道は〈敵〉としてあらわれてくる相手を進んで調和の状態に誘う実践的な技のことです。伝統武術などで最も重視する〈浮身〉のこつも、この〈足の内〉によって多くの人に筋道がついて実現されるでしょう。
 それは、足の内はつまり腹の内で、足の捌き方、踏み方が腹あるいは肚(ハラ)と一致している。つまり全身と足裏の関係が親和して密になったからと思われます。そして、実は〈手の内〉も〈足の内〉によってこそ支えられていることが実感されます。また、それは〈身の内〉〈身内〉ということを深く気付かせるのです。
 …すべては、我が存在の内にある。ちょうど、親子兄弟、朋輩を〈身内〉とするように、すべての物や事、宇宙も親和して身の内にある、ということへつながってくるのです。ここで述べているこうしたことは必ず身体感覚が伴っているのでして、観念上のことではありません。
 稽古を長くつづけている鍼灸師は、患者に触れる際や鍼をうつ時の手捌きや指使いが〈足の内〉の自覚によってそれまでより随分柔らかく自在になってきたということです。
 この〈足の内〉によって、私や私の知人たちに生じてきたような内容は、医学や治療上のことに限らず、昔からすでに武術や舞い、瞑想などの卓れた身体技法の達者たちにも生じていることで、周知のことかもしれません。
 しかし、私にとっては、そして願わくば、多くの現代人にとっても〈足の内〉というこれまでになかった言葉と発想によって励起され、引き金を引かれたことによってこそ色々な変化が生じることが大切なのだと思います。それはいわゆる身体に関わることに終わるはずはないのです。
 何よりも、ヒトが直立二足歩行することによって人間として生きることになった、そのそもそもの存在の様式の源泉に触れてゆくヒントになるのではと思われます。それは人の言語・想像力・身体の三相とその関わり方をあらわにしてゆく働きをもっていると思われます。この三つは互いに位相を違えながらも、また互いに呼応して働くのだととらえられてきます。


  
舞踏家大野一雄の足(写真/小野庄一)『秘する肉体ー大野一雄の世界』より



やわらげの武稽古より

やわらげの武稽古より

これは何人かの先輩の先生達もしていた技(1)

これは何人かの先輩の先生達もしていた技(2)

やわらげの武稽古より


(〈足の内〉にこそ原郷が ―〈うづたま〉によって気付かされた―・後編 了)