坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

〈足の内〉にこそ原郷への道が ―〈うづたま〉によって気付かされた―・前編

ある日、稽古の途中で…
 今年、2014年10月4日(土)の午後、けいこ場のたま・スペースで少数の人たちと武道―やわらげ―の稽古をしている最中、一人が、手の内と足の関係はどうなのかな…?と、つぶやくのが聴こえました。「手と足…」その瞬間、私はそうか、〈手の内〉があるなら、〈足の内〉という発想があってもよいのではないか!と閃いたのでした。確信めいたものが全身にぱっとゆきわたったような感じです。
 〈手の内〉とは、剣術などで剣の柄を両手で握って使う、その手の握り方や感覚のことです。昔から、手の内はウズラの卵を二つ握っているようにせよと説かれたりします。握り締めすぎると卵がつぶれてしまうし、ゆるすぎると卵は落ちてしまう、というような教えです。もっともこれはごく初心のための教えでしょうが。柔術でも〈手の内〉のことは言われます。

     
著者がオーストラリアの原野で剣の型を演じている


 武術に限らず、自らの掌の内に何か道具などを握るこつを〈手の内〉といいます。
 様々な実際的な要領や心得が手の内には必要ですが、その粋は、つまりはしっくりと掌中に収めて用いる、ということです。するとまさに己が掌(タナゴコロ)を指すようにその道具などを意のままに理想的に使える、ということです。

 さて、冒頭の〈足の内〉です。そんな言葉はないのですが、ふっと思いついたのです。
 私は、ずーっと足使いや足のあり方について工夫、研究してきました。能楽真言密教の行の足運びも、それぞれの道の専門家に手ほどきを受けて研究したりしました。いろいろ昔から伝わったヒントになるような言葉はあるものの、自分としてはこういうことかな…というぐらいで、いま一つしっくりきませんでした。
 荘子に、真人の呼吸は踵をもってする―という言葉があります。
 宮本武蔵は、剣術の足使いとして、足指を少し浮かせつつきびす(踵の和語)をつよく踏みつけてゆくように、と述べています。今の剣道とはまったく異なる足使いです。
 足心道という名の、柴田和道という人が発案した健康術もあり、数十年前、少し調べたことがあります。足の指やツボを中心とした療法です。(今は、中国式足心道というのもあるようですが)
 仏足石(ぶっそくせき)といって、仏陀の足の裏に様々な働きを見て石に刻んだものがあります。原始仏教は偶像を禁じたので足跡への礼拝からはじめた、ということです。しかしこれは、いかに足が体の部分としては外れにあるかという考え方を示しているとも言えるでしょう。…実は外れどころではないのですが。
 こうしたヒントを念頭に置きつつ、また、日頃の稽古を通して観察、自省しつつ、私も足、特に足の裏や踵については色々と工夫してきて、たとえば全身の様々な動作時に足の裏を〈鏡〉のようにして行なう、などと言ったりしました。それなりの手応えや多少の成果はあると思っていたのですが…。
 そして冒頭に述べたように、稽古の時、〈足の内〉だ!と、この、これまで聞いたこともない言葉が浮かび、その言葉で私の身が変容してしまった気がしたのでした。言葉と想像力と身体が一挙に結ばれたようだったのです。


言葉や想いが裏付ける〈身体〉
 この三、四十年、私はほとんど無我夢中で身体技法に取り組んできた気がします。今、自ら客観的に見ると、紆余曲折、あちこちぶつかりながら、でもそれなりに、止めようのない情熱のようなものに衝き動かされてきたとも思えます。

  

  
左上:ニューヨーク・ハーレムの演劇集団と(1975年)       
右上:インド南部東海岸ガンジーと共に「塩の行進」を歩んだ人の子孫と共に(1972年)
左下:俳優ヨシ・オイダとの実験演劇に参加、北米、ヨーロッパ諸国を巡演(1975年)
右下:螺旋学の第一人者ジル・パース(英国)と共に(1981年?)



 なぜそのように〈身体〉に執われたのか。半ば我身を実験材料にしながらも止めなかったのか。今になって省みると幾つかの動機があったと思っています。
 まず、簡単にまとめてしまえば、体で生きる、体で知る、納得する、ということがしたかった。
 書物の文言を追ったり、学者や様々な分野の権威の説や、学校の講義の勉強だけでない、いわば活(イキ)学問がしたかったのだ、と思います。
 活学問によってこそ、はじめて活々と物(モノ)、事(コト)、そして人間にも本当に出会えるのでは、と思われたのでした。
 それには、私個人の性格や体質、環境も関わっていたでしょう。と、同時に私たちの受けてきた現代の教育の傾向に何かが不足している、いや欠けさえしているのを感じていたこともあったでしょう。それは半ば無意識的な渇望だったかもしれません。
 一方、実践上の立場からそうした動機を省みると、世の中に生きて、人生を歩んでいくための自信の根拠のようなものを身につけたかったとも言えるでしょう。こうしたことは、殆どの少年、少女が大なり小なり感じてゆくことです。
 と同時に私の動機にもう一つ欠かせない面がありました。どんなに力を誇り、きらびやかな色彩をまとって装っている物事でも、それらの裏には必ずぴったりと終末や死が貼り付いている。その様相をとらえ切らないと、一歩も進めない、という気がしていました。言い換えれば、自分の生命や存在を含めて、その成り立ちを丸ごと掴みとるにはどうするのか?ということです。いってみれば〈無常〉という課題です。結構切実で、身に迫ってくるものでした。
 必ずしもそれは既成の思想や宗教などの枠に収まり切れない、まさに活学問の中の精髄ではないかと思わされました。
 そのこととつながるのですが、最後にどうしても記しておきたいことがあります。
 私が十代の中頃に宇宙と自らの意識が光明と化するかのような強烈なヴィジョン体験をしたことです。これは数日して消え去りました。けれど長く心の底に残った。私はこのヴィジョンと〈現実のこの身〉との関係を明らかにしたいと強く思っていました。

  
著者、左の写真:9歳頃(前列左端)、右の写真:青年前期頃

 このように〈体で生き〉〈体で知る〉実践には、そうした幾つかの動機が重なり合い、互いに相矛盾しながら混在していたと思います。

 なぜ、そうした動機をもつようになったか、元になった幾つかの具体例についてさらに述べれば、身体技法の成立に色濃く関連するのですが、紙巾の余裕がありません。ここではそれに関わることを一つだけ述べたいと思います。
 それは、日々渦巻いて襲ってくるかのような夥しい言葉や論理、思想、主義、説の表現の道具あるいは表現そのものになっている言葉ーコトバと、現実の事―コトとを活々と結びつけてみたかった、ということがあります。つまり、コト―(事)と(言)の照応、呼応の問題です。現実とそれを表わし指し示す言葉と理(コトワリ)の関わりです。それが私にとっては大変切実なことでした。その事と言の関わり、その鍵が〈身体〉だと思われたのでした。少なくとも身体は欠かせないはずと直感されました。

 そのような動機あるいは衝動に突き動かされつつ、様々の実践も通して〈身体〉に取り組みはじめるとやがて、次のような発想が浮び上がってきました。
 身体活動についても何か、言語活動と似た基本的な〈文法〉のような原則が欠かせないのではないかということです。それはどんなジャンルの身体活動であれ、様々な身体技法や術、日常の立居振舞いや動作であれ、そこに共通してそれらを支えるような原則です。そうすると、それはそもそもヒトが直立二足歩行して人間となったとされるその原点につながるような法則性ということになるのではないか…。少なくとも、そのあたりに遡れる発想でなければならないだろう…。

 当初はそれを「身体の文法」として次の四つを想定していました。
 このことは、これまで様々な機会に述べたり、書いたりしてきましたし、身体技法―〈∞気流法〉と名前をつけた―を体験したり見たりした方はご承知のことと思いますので、ここでは簡単に述べます。



「身体の文法」第一基本四則



a.重力に沿って重力を活かす 
 人体は重力、つまり引力の制約下にあるので、重力(重さ)をどうとらえ活かすかが、身心活動の鍵になる。―それが身体運動の過程での中心・脱中心とか、集中とリラックスのめりはりに関わってくる。

 
大地に身をゆだねる


b.息を感じ、息を観じて息に則る
 呼吸のこと。そのリズムと身心の関係、技のこつや出会いのめりはりを日本語では〈呼吸〉ともいう。すると呼吸と行為や感性を結ぶ構図があるのではないか。

 
瞑想に活かす             /             呼吸にのる     

c.気を巡らせ、放ち、養う
 気という東洋的な生体エネルギーのとらえ方。身心を結ぶエネルギーともされる〈気〉が人体を満たし活動を支えている、とされること。〈気〉は東洋医学や伝統武道や芸能などではよく伝えられてきた体験知による言葉であり、発想です。けれどおかしなことに、というべきか、あるいは近代文明の宿命というべきか、〈気〉は一般には充分に市民権を得ていない、というのが問題なのです。けれど実際、通常の日本語の中にも気―(キ)、あるいは(ケ)という言葉、あるいは発想はあふれているのですが…。

 
〈気〉で、一つの身のように連なる       /      「やわら」の激しい動きに活かす

d.動作は流れのごとく
 私たちの身体動作や行動や多くの術は、流れのように行なうのが大切だ、という〈文法〉です。直線ではなく曲線です。いきなりスポーツの話しになりますが、百メートル競走でも、一見、直線を、最短距離をとって走ると見えますが、たとえばボルトなどの好選手は走行中身体に夥しい波動や振動を生じさせています。直線を支えるにはたくさんの曲線の働きがあるわけです。そこにいわゆるリズムも出てきます。ボクシングの直線的な打撃―ストレートでも同じです。直線的な表の現象を夥しい曲線的な動きや力が支えている。ですから〈動き〉のエッセンスは流れのごとく波動のように…というのが肝要になります。

 
高く、低く、やわらかく、勁く、千変万化の水流のように


〈やわらげ〉― ∞ 状の動作
 私は、この文法abcdを、人の身体活動や振舞いのあらゆる場面やジャンルに通じるだろう「身体の文法」の第一基本とし、それに沿って、身体技法を工夫してきました。(註1)
 その最も重要な技法で多用するのが、∞(無限記号)状、あるいは8(八の字)状の動きで、これは本当は、トポロジカルなメビウスの環状の動きになります。〈やわらげ〉と名付けて行なってきました。これについても、これまで色々な機会に詳細に述べてきたので省略します。(拙著『気の身体術』(工作舎刊)『メビウス身体気流法』(平河出版社刊)等参照)


 この数十年間ワークショップや定期けいこの会に、様々なジャンルの人々がプロもアマも問わず参じ、色々の動機の人々が体験しました。日本だけでなくフランス、ドイツ、ベルギーやオーストラリア等の人々が、日本に留学してある程度習得し、各国で指導者となっています。
 日本からも毎年指導者が行き、各国で講習を行なってきました。パリのフランス国立舞踊教育機関で数年、授業として行なわれたり、演劇界のリーダーの一人、ピーター・ブルックのキャストやスタッフにワークショップを行なう機会もありました。また、日本の大学で毎年、少し技法を簡略化して学生に講じられてもいます。

 
フランス・パリの定期ワークショップは30年続いている / 同じくドイツ・ハノーヴァーで 

 
FIFA国際サッカー連盟)の審判部ディレクターと審判部トレーナーへの指導(2010年〜複数回) / ノルウェーのハイスクールで(2010〜2012年)

 
ピーター・ブルック劇団の俳優で演出家でもあるヨシ・オイダ氏 / ベルギー・ブリュッセルでハンディキャップをもつ人々に気流法を応用した演劇ワークショップを続けるエマニュエル女史

 
編集工学研修所、松岡正剛氏主催の研修会で著者がゲスト講師として気流法を指導(2010年) / オーストラリアのダンサー、ジェイドの〈やわらげ〉(2000年〜)

 何かの能力開発や健康法と思われる場合もありますが、それを「目的」として固定するのではありません。体を簡単な形で動かしてみることによって〈文法〉とされるところを実感します。あるいは〈文法〉によって動き、実感しながら、身体、身体と心の活動、生命等をどうとらえるのか、どう感じ、把握していくのかが大切です。身体を意識化する、といってもよいでしょう。その結果が身心のバランス、健康、身体の関わる技の上達等、様々な形でも出てきます

 (註1) ここの挙げた四つの文法は主として実際に体を実感し活用するための〈文法〉である。つまり意識的な身体活動の原則である。次の段階としては、〈生物〉としてのヒトの生命活動と身体を自覚してゆくための〈文法〉とそれに伴う技法がある。


〈足に内〉に目覚め、やわらげの武


(この章・後編に続く)