坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部)『もうひとつのからだへ』【手のひらと指が世界に接する】の章―〈3〉

 リルケの直感と空手道

 ここに出てくる〈天〉とは何だろうか。たとえば孔子が、期待していた最愛の弟子顔回に若くして先立たれ、思わず「〈天〉我を見捨てしか」、と嘆いた〈天〉。五十にして天命を知るの〈天〉…。〈天〉は、私たちが俗に神というニュアンスに近いところもある。キリスト教の〈神〉とはもちろん相当に異なるが。
 物理的な空や宇宙だけでなく、それらも含んで、それらを運行するかのような存在、あるいは、人間もその中に含む無限の宇宙という舞台…。いずれにしても現代人が、最先端の知識を駆使して〈天〉を問い詰めようとしても難しいか、お門違いになってしまう。〈天〉は芭蕉が〈造化〉といったところにも近い。〈造化〉は広辞苑によれば万物を創造し、成育した神。天地、自然などとある。我国でも儒教、仏教、神道の区別なく、それらも融合して用いてきていると思われる。

 玉城康四郎先生が、文化大革命紅衛兵の時代からすぐ後に、中国の大学に招聘されて帰ってこられたとき、次のように話されていたのを思い出す。「東洋思想と仏教の講義に訪れて、中国では表向きは唯物論が建前になっているのでどうかと思ったが、〈天〉という言葉は使われているので、仏教でも、儒教でも、本質的な思想は滅んでいないと感じた」と。


 ライナー・マリア・リルケ(1875―1926)に「手のひら」という短い詩がある。
   手のひら       リルケ
  それは
  感じることしかできない足の裏が
  上へ向いて鏡となり
  天に架かるめぐみの路を映しとり
  水を掬いにゆくことを知る 
  すべてのものを変容させる源泉よ!
    (後略)
 詩などに慣れない人には、とりつきにくい内容かもしれない。この詩に限らず、リルケの詩を訳し出版しているドイツ文学者でも、半ば意味が分からずに困惑してか、深遠そうな理論づけで解釈をしている場合もあると思われるくらいである。

 ここでは、簡略に説明してみたい。なお、訳は、知人のドイツ語の元大学教師のO氏に頼んで訳してもらったのを元にしている。

 リルケは、この詩で、手のひらは元々足の裏だった、と前提にしている。これはおそらく当時盛んになりつつあった進化論的な見方にも沿っているのだろうか。足の裏は大地に着いて伏しているから、無意識であって、〈天〉の恵みなども自覚できない。
 けれど上向きになって、天を映し込むこともできるようになった手のひらは、世界の動きや恵みや計らいや理法をとらえられる。つまり世界を意識化できる。そこで次に、手のひらは「水を掬いにゆく」というのだが、これは、手のひらによって世界を意識化できる、つまり「計る」ようになった人間が、自ずとすべてのものを変容する創造的な営みに目覚め出したことを指しているだろう。つまり術であり技という意味の〈手〉である。すべてのものを変容させる源泉とは、人間が自然の様々な物に働きかけ工夫してそこから何かへ造りかえてゆくこと、そのようなことをする意図や祈りのようなことを示すだろう…。つまり大ざっぱだが、「掌中に宇宙はある」とする禅にもある一言と通じる発想が、ヨーロッパの詩人に宿ったことになる。この詩の以下の行は少し煩雑になるので略す。ここに、私は、本章で手のひらについて語ってきたことが、このような形で要約されていると思うのである。武術の達人、尾崎放哉、孔子…そしてリルケと続いたが、今は、身体技法でそのことを関連づけて解いてゆきたい。


 気流法・身体技 ―〈あまうつし〉
 前出のリルケの詩は、私が、私たちの身体技法で〈あまうつし〉という型と動きを編んで行ないはじめてしばらくして知った。
 そして、この詩の中に、私がこの型で意図していたことと同じアイデアがもられていたので驚嘆したのであった。
 この型の名〈あまうつし〉という意味に通じるものがある。
 それは、両手のひらを柔らかく上〈天〉に向けて、手のひらが鏡であるように、〈天〉がそこに映り込むかのようにする、そのようなヴィジョンである。ヴィジョンあるいは観法なのだが、当然、身体技法だから、現実に手のひらを一定の形にして感覚を伴うように行なうのである。


 次のようなポーズをとる。

 椅子に腰掛けて、両足は肩幅くらいに開いて床に置く。(背もたれがある椅子では少し浅く腰掛ける)
 左右の手のひらを開いて、肩よりほんの少し低いくらいの高さで、前に伸ばす。床と手のひらは平行になっている。両手のひらは肩幅くらいの距離に保つ。
 指は、緊張しないように伸ばす。きっちりと揃えるのではなく、指と指の間が自然に少し空くくらい。
 そこで、視線は、前に注ぐ。(前方十メートルくらいから、もっと遠くてもよい)
 手のひらの感じは、掌心にとても麗しい微妙な大事なものをそっと載せているような感じである。
 私は、朝露が朝日の光を受けてきらきら輝く(英語でモーニング・グローリーともいうらしい)のをそこに載せているかのように、ともいうことがある。
 ともかく、何でもいいから微妙で大切なものを載せた両手のひらを、少しの間そのままにしておく。
 肘は緩めて、肘の重さが感じられるくらいにしておく。そうすると、肩は自ずとリラックスし、沈むことになる。
 手首は、両手のひらを、床と水平にするためにとった角度のまま。
 この時に、柔らかく開いた手のひらは、リルケの詩のように〈天〉を映し出す鏡のように働く。そのことが実感されるとよい。
 とても深く集中しているようで、とても安らかにリラックスしている状態…。
 全身が、静かに、安定し、それでいて力に満ちた状態になる。
 具体的に、体のどこに、何が生ずるか、分析的なことに、ここであまり立ち入らないが、一つだけ述べると、この、手のひらを前に差し出したポーズで、骨盤の周囲の筋肉が少し緊張し、腰を中心に構えが自ずとできてくるのが感じられる。
 そして、リルケのいうように、手のひらという鏡を通して〈天〉― あま ― 無限の宇宙の恵み ― を、我が裡に自ずと移し容れたかのような状態になる。
 これは、沖縄に伝わる空手の〈サンチン〉という基本の型に用いられているポーズに極めて近い。私は当初は、それもヒントにした。もちろん空手の場合は立って行なう。けれど〈あまうつし〉は、戦闘用だけに目的を絞っているわけではないので、少し異なるところがある。空手の場合は、肘をしっかりと強く内側に絞り込んで構えるが、〈あまうつし〉ではそこまで絞らなくてもよい。通常は肘の重さを感じるくらいにすればよい、とする。自ずと肩も手首も緩むからである。
 空手の他にも、様々な民族や宗教の祈りのポーズなどで、この〈あまうつし〉に似たポーズが見られる。


 ここで、ちょっとした〈ボディ・テスト・ゲーム〉をしてみる。
 〈ボディ・テスト・ゲーム〉〈あまうつし〉の体勢
 通常何もしないで椅子に坐っている場合。あるいは両手のひらを固く握りしめている場合。
 誰かに前から胸の辺りを押されるテストをすると、通常はたやすく後ろへ崩れてしまいがちである。後ろから前へも、横へもである。
 けれど、〈あまうつし〉の状態に入ると、別段抵抗しようとしていないのに、びくともしなくなるか、なかなか崩れにくくなる。むしろ、抵抗しようとする意識がない方が、しっかり位置を保てるのである。
 単に椅子に腰掛けている場合だけでなく、立っても(写真上)、正坐しても(写真下)、あぐら坐りにしても同様の結果を得るだろう。後からでも横からでも、押しても簡単にはゆるがなくなる。〈天〉〈あま(天)〉を人の手のひらに映し裡に移しこむような型、これが〈あまうつし〉の基本原理である。



 私たちの身体技法では、この手のひらのポーズの前に導入のための工夫がある。また、ここから様々な面白い変化の動きや瞑想、呼吸法や、武術―やわら、合気、剣術―に入ってゆく。どうなっても、根幹は〈天 ― あま〉を映しつつ展開するのであることに変わらない。
 立って行なう場合は、足の裏も〈あまうつし〉のように、地に足をつけたまま、足裏を天に向けるかのように心持ち浮かせるか〈めくる〉ようにすると、さらに全身、身心が自在になりやすい。
 足裏を天へとめくるようにすることは、もちろん実際には不可能なことだが、そのような心持ちになれば、大きな変容が体全部に生じるのである。
 たとえば、通常、体の大きな、力のある人が、小さな人の胴体を持ち上げると、小さな人は容易に持ち上げられてしまう。
 けれど、手は自然体で垂らしたままでも、足の裏を〈あまうつし〉にすると容易に持ち上げられなくなる。
 これは、立っている人を後ろから、前から、横から押してみるテストでも〈あまうつし〉の効果がとらえられるだろう。
 両手のひらと両足で行なえば、相乗的な働きが生じるのは無論である。
 そのようにして、〈あまうつし〉は様々な技や動きや瞑想への応用に入ってゆくのである。
 このように古くから、おそらく、人間がヒトとなった当初から意識され始めただろう〈天〉は、活々と人体に映され移されて活かされるのではないだろうか。それが文字通り私たちの掌中にあるのである。


 人はまず、赤児の時代、生きるために全身全霊で、だからこそ無心で母親の乳房を掴む。幼児期には「結んで、開いて、手を打って…、その手を上に!…」と歌って、手のひらを宙に喜々として遊ばせる。「お手々つないで…」もある。
 成人になると、様々な道具をとって、必ずしも単純な生存のためだけでもなく、名声や富や権力を掴もうとする手のひら。

 また、共に生きることを実感する挨拶や抱擁のために、開き閉じ、触れ合う手のひら。
 あるいはまた、ロックコンサートで聴衆が手を上に突き上げてリズムをとる、そこにも〈天〉へとつなごうとする衝動が潜在しているのではないだろうか?
 その手のひらは、時には人の力の及ばないと思われる超越的な何ものかへ、極まったように左右を合わせられて合掌となる。

 合わさった手のひらは、再び開かれて地に伏せられ、礼にもなるが、何も掴まないで開けっ放しの〈放ち〉の状態になることもある。この〈お手上げ〉の状態こそ、無限の世界と可能性を示す〈天(あま)〉へと人が開かれた状態でもある。
 そのときこそ、逆説的にも〈天〉は掌中にある。降参と希望の一致である。
 そのような実感へと、〈あまうつし〉は誘うことができるのである(写真下 植芝翁の万歳)。


【手のひらと指が世界に接する】の章・完  続章へ続く