坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

「あまつかぜ」の展開 (1)

 私は、わけあって少年時代から様々な瞑想法や行法、弓道神道のみそぎ行、ヨガ、合気道や剣術、気功や呼吸法、その他様々の身体技法に触れてきました。

 ここでは詳しいことは省きますが、その「わけ」とは、一口に言うと自らの存在(イノチ)の根拠を明らかにできないか、と切実に思い出したからです。なぜそんなことを思うようになった? 大変多くの人が同様のことを思っていたとしても、なぜ私が執拗にその“問”にとりつかれたのか、今でも簡単には説明できません。

 けれど、ご想像の通り、そうなると私の生来の傾向もあって世の一般的な、つまり「常識的」とされる動向には素直についてゆきにくい。就職などの一般的に求められる生活には表面を合わせながら、余裕の時間で自らの問いへの解答を探求する、ということも何回か真剣に模索したことがありましたが、それは私の能力的にも時間的にも、特に体力的に困難でした。

 そこで私は何十年も後に言われ出した、オタク、ニート等に似た立場になりました。当時一部の若者に話題になった「アウトサイダー」とも思ったりしましたが、まあ、「変わり者」ではあります。一族の法事などでは、大企業に勤める固いタイプの叔父から、お前は参加しなくていいと言われたりもする。

 そのようにして、私は上記のような行法に触れたり、その道の先達に出会ったりしていったわけです。もちろんできる範囲で書物でも探っていました。それは大体、三十歳代中途くらいまで続きました。そこには養生法やスポーツ、芸術(ダンスや演劇)、茶道や華道等も含みます。

 そして、ふと気付いた、というか発想し出しました。

 そこに通底する動向や発想を汲み出してみたらどうだろう。

 元々、異なった民族や文化によって培われ、育まれてきたし、目的も色合いも異なる……しかし、そこに共通の「型」のようなものを探り出し、思い切って「一つ」に融合してみることはできないだろうか。民族や歴史を超えた共通した人間、人体がそこにあるのだから。……一般には妄想と思われかねないこの考えが、ある時私に宿り始めたのでした。

 そこで私はまず「身体の文法」という考えをもったのでした。

 様々な身体活動はジャンルや歴史や文化が異なれば、当然様々と異なってくる。けれど、異なりながら、人間である以上、必ず共通のところがあるはずでしょう。

 たとえば、性(セックス)もあらゆる人類に共通であるのは自明。しかし、性そして食以外に、ある種の所作にも共通項もあり、それが特に冒頭にあげたような、自己の存在を明らかにしたり、人と自然を深く結ぶかと思われる行法や身体技法にも貫いているのではないか。

 こうして、私の探求は少し新しい段階へと集約し始めたのでした。それは言語学者チョムスキーが、文法の様相が異なる諸言語であっても、その深層には共通する文法の構図がゆるがずにあって、一般の文法ももちろん、それによる通常の言語もその“生成深層文法”によってなりたたされていると言ったのに似ている、と、私は当時思っていました。

 冒頭の様々な身体技法、瞑想、祈りの様式ばかりでなく、また神や自然との交流を追求し表現するところから発した舞や歌唱法等、つまり芸能や芸術といわれる営みにもそこに「生成深層」と似た構図があるはずだ……と。

 けれど、発想や考えや思いつきだけではどうにもなりません。必ず身(ミ)で味わい、確かめることが欠かせません。時には何度も何度も繰り返すことも必要です。私は身体の文法を発想してから少人数の人々とずーっと戸外や室内で工夫し、工夫した型を試したり探求し続けていました。大体、その時ごとに何か気付きとか発見はあります。少しずつ見えてくるものがありました。

 私がこういうことができたのも、何か権威ある伝統ある技法を表にしている門派や組織に属さずにやってきたからともいえます。特に芸術や宗教の組織的な団体では、時に内容よりも一種の集団的、ときには政治的な配慮や権威、権力の保持や発展を顧みることが強く求められかねないところもあります。するとそこに、とらわれのない新鮮な感受性や創造力が褪せてきやすい。大体、ニートや引き籠り、「アウトサイダー」は組織や権力が(それに従うのも、それを持って他に揮うのも)苦手だからそうなっているのですから……(笑)。もちろん、およそ人間の営みは何らかの協力なしになされることはないのだから、組織も本来は大切ですが。

(続く)

 

§ 閑話休題 §

 こうして、やがて私は理想の身体技法「あまつかぜ」を<発見>します。それは<創る>よりもむしろある時<身にやってきた>といったほうがよいのですが、一応<発見>としておきます。探求のプロセス自体に「あまつかぜ」の内容が深く絡み合っているからです(註 ― 拙著『呼吸する身体』『メビウス身体気流法』『気の身体術』等をご参照ください)。それに到る過程を順次述べてゆきます。