「コロナと人間の知」・特別編
人間の「原点」へ
身体術「指南杖」の発見
ある時は広やかに宇宙とつながっているような肯定感とともにある自分。一転ある時は儚く弱々しく孤独でとるにもたらない自分。本来の自分はどこに? どうしたら達することができる?
「指南杖」がそのヒントになる。
「人間の原点」の感得の術(アート)である。
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新年おめでとうございます。
ご挨拶が遅くなりましたが、旧正月が近くもあり、ご容赦下さい。なお、以下の主旨は、これまで∞気流法を知っていたり、稽古をしている方々への挨拶と一文です。
けれど、まだお会いできていなかったり、初めての縁の方、一般の方にもお届けしたい、と思って、心を籠めて記しました。初めての方には馴染みのない、稽古技法の名前のところはあまり気にしないで飛ばして読んでいただければと思います。
世界も私たちも覆われている
顔の半分をマスクに覆わせて約一年が経ちました。同時に、地球全体、全人類を覆い続けているのは、まるで雲か霧のように充分に得体のしれない新型コロナです。
前に、私はそれはタルコフスキーの名作SF映画『宇宙船ソラリス』に出てくる終始世界を覆う妖しげな霧のようだ、と述べました。(当ブログ『坪井香譲の文武随想録』「コロナと人間の知」(1)2020-07-20)
客観的にもコロナウイルスの正体はなかなかとらえ切れません。その相貌をまるで狡猾に変えてゆくーイギリス型、アフリカ型、ブラジル型…と。そして正体を見極めてコントロールしようとする人の知見の網をくぐり抜けてゆく…ちょっとしたSF世界です。
何事であれ、「敵」にあたるものとして、その性格や変化の仕方を見極めなければ、克服したり、その脅威から逃げることさえ困難です。人類は、今、そんな時にいるのでしょうか。
もう一つ、科学上のことだけでなく哲学、自然学、世界観の上のことです。いわゆる世界の「知」の巨人と言われている人々にも、一体、今のこの現象はどんな意味合いがあるのか、私の知る限りですが、ヴィジョンがとらえられていない。
ここに「確かさ」への芽が…
さて、このような様々に「覆われ」ている困難の時ですが、だからこそ、私たちが、一人一人取り組めることがある。
それは私(あなた)が私(あなた)自身に出会う、という営みです。
もし私が私自身に深く確かに出会ってゆければ、自らが世界の中でどんな位置にあるのかとらえられやすい。自己の位置が明らかになってくる。
すると、今の限界の中でどうすべきか、何を怠らずに急ぐべきか、一方何を焦らずに放っておくべきか、が見えてくるでしょう。
問題は、どのようにしたら各々が、個として「自らに出会」ってゆけるか、です。
もちろん、誰でも、どんな時でも人は、知ると知らざるとにかかわらず自らに出会い続けてはいる。けれど「出会い」続けていること自体を自覚していないことが殆どでしょう。
それを自覚して行なうものとして、思い起こされるのが「瞑想」や「禅定」です。あるいは「祈り」や「信仰」もあり、様々の「道(ドウ)」と名の付く営みもあるでしょう。柔道、華道、茶道、書道…。
けれど、これらのジャンルにも落とし穴がある。それはそうした営みの方法が、パックされ銘がうたれているため、いつか「ブランド」化してしまうことでしょう。一種の偶像崇拝や、そこまでゆかなくても権威への半ば盲目的な信奉だけで自己満足しそれ以上のものでなくなってしまう例が多い。何のとっかかりも型もなければ「型なし」で何も生じない。けれど「型に入って型を出る」ことが必須でしょう。
ブランドの枠の中に居ることで満足感に陥って本質的な何かを見失うことを防ぐためには、たとえば老子ータオイズムの「無為」や、禅の「無功徳」や「放下著」などが常備薬になることもあるでしょう。学問を重ね、知識を詰め込む程に愚かになる学者が多い、と評論家の小林秀雄が講演の中で嘆いていたのもこれらと通じることでしょう。
これまでこのブログ『文武随想録』で何回か触れてきた玉城康四郎先生の「全人格的思惟」も、そのような機微と軌を一にする営みと思われます。
ここに一つの術(アート)が
さて、私自身は、このコロナの一年間は特別にいわゆる瞑想をしたわけでもありません。
ただ、自覚的に青年時代から探究してきた身体技法と、その発想、実現の元になった「身体の文法」を、もう一度徹底的に洗い直し、感じ直し、この数十年ではじめてという程に精査することができました。
現実には、(通常から毎日主として室内で二、三十分行なっている他に)週三回~四、五回、一時間~二時間程度、身を動かして行ないました。場所は主として私の住む共同住宅の共有の庭の芝生のコーナーです。
庭のコーナーで型と運足などを行ない続けたので、芝生に少しその跡がつきました…。(写真上)
稽古を共にしてきた方はよくご存知の「3R」「垂直気流」「やわらげ」「あまつかぜ」「息をかんずる」に加え、大きなヒントを含んでいたと痛感したのがアケジ師直伝の古代からの剣の型で、盛んに行ないました。(註1)太刀(たち)と小太刀と二刀の型です。1990年代から2008年頃までずっと京都の山奥に月に一、二回通い続け、以降は折りあるごとに自ら練ってきたのですが、これ程の頻度で沢山型を行なったのはあまりないくらいです。
剣術や武道は、もちろん剣呑な闘争法を根とします。生死が懸かるため極めて精緻な身体操法や身体観や叡智を備えるものもあります。
けれど、それ故にこそ一転、身心を活かす、平和な一般的な道へ化し得る。
私はそう考え、他の色々な身体技法に加えて武道の探究もずーっと続けてきたわけです。
「アケジ師と香譲 ー 稽古の合間に」(写真上)
(註1)少なくとも平安末期からとされている非常に古くから主として家伝で継承されてきているもの。山岳行も伴うが坪井は主として剣の型の基本を伝えられている。
「身体の文法」と古代からの型の叡智を融合
新しく工夫してきた型と古からの型とを並行して行なっている中、一種の変容が私の身体と心に生じてきました。(註2)
そしてそれが一つの型による動作に集約してきたのでした。
特筆すべきなのは、それを行なう際に自らの身体だけでなく、一つの簡素な「道具」を持ってすることです。
(註2)2020年の春、ある日の稽古、工夫、研究の後、風呂場の鏡を見てびっくりしました。七・三に分けていたはずの髪の毛が、まったく触れもしないのに左右均等に分けられていたのです。稽古の集中が濃くなって、体を貫く中心線の働きが強くなってそうなったのでしょうか。自分自身は無意識にそうなっていたのですが、相当な衝撃だったのでしょうか、次の一日近く、何か気持ちの余震じみた興奮のようなものが残っていたのか、気付くと、人当たりにも影響していたのでは、と反省したりしました。
「道具」ー自らの身体だけでなく「物」と共に
それは一筋の杖です。垂直に、半ばぶら下げるようにして両手でふわりと包むように握った杖。もし私が力んで持つと、折角錘のようにして正確に地球の中心を指し示している筈の杖は垂直方向を失ないやすくなります。反対に握る手、あるいは掌や指が緩すぎると杖は落下してしまい元も子もなくなります。
杖はそのように、「指南」、「指示」する働きをするので、この型を「指南杖」と仮に呼ぶことにしています。
このように、重力による垂直な関係を術や動きに活かすのは、アケジ師直伝の剣の型の原則に多く含まれていることに改めて気付いたとも大きかった。
道具とは、タオ(道)ー宇宙の根元の法と働きと力ーが具(そなえ)ると書きます。ごく小さな道具から「宇宙」が覗けてゆく。無手(何も道具を持たない)でもできますが、道具という「他者」にもなり得る物を敢えて自己の身に結んで行なうところに術の奥行きのようなものが出てきます。(同じ原則は剣や棒、扇子などでも通じます。)
このようにして存在(イノチ)に「入ってゆく」
お見せするビデオ(註3)のように胸の前にかざして、常に杖の重さを感じながら垂直を保ち、上にゆっくりと、自らの身との距離を変えず、垂直線に沿って上げてゆきます。先述のように、固く握ると、折角の杖の垂直の示しを邪魔してしまうので、手も全身も深くリラックスしつつ集中します。(註4)
(註3)同じ位置に止まって、杖を昇降している過程と、その後に静止する過程が、「指南杖」基本の動きです。巻末のビデオ「指南杖の展開の一例」は、その展開を即興を含めて行なっています。
(註4)リラックス・つながり・集中(実感)は∞気流法の全ての基本です。テキストブック『身体を実感する・〈3R〉』(∞気流法の会刊)参照。
対応するラセンを直線に導入して
さて、垂直動向を保ったまま杖を上昇させてゆく過程で、その垂直動向に、ラセンをかけ合わせてゆきます。
右回り、左回り、あるいは時計回り、反時計回りの渦状の動作によるいわば「対ラセン運動」です。この双方向のラセンを一つの直線的(な動き)に引き入れることになります。
ここが少々特別なところです。
何であれ、同じ物にしかも同時に反対方向の渦や円転をさせることなどおよそ物理的に不可能です。
では、どうするか。
それは想像力。イマジネーションを用いるのです。
「心の遊び」と、ある名人が別の何かについてですが言っていたことを思い出します。(註5)
こうして、想像上のラセンの働きを容れた垂直な杖が充分上まで伸ばされたら、ここでもう一度「心の遊び」が要ります。杖の上端からさらに上方へ、天へと垂直に気持ちを伸ばしてゆきます。もちろんそれにも対応するラセンが…。
杖と両手が上まで伸びたら、杖の重みを感じつつ、先の胸の中程のところまで降ろして止めます。
(註5)イマジネーション・心の遊びによる対応ラセンは、図(A)「対応するラセンの一例」のように示されます。
また、右旋回・左旋回の動作と呼吸が一体になった実技「あまつかぜ」の基本とイメージ動画、および「指南杖と対応ラセンの展開1・2」は巻末参照。
図(A)「対応するラセンの一例」
吐く息、吸う息を伴わせて
杖と腕の上降の間、呼吸を合わせます。上へゆく際に意図的に吐いてゆき、下降する際はなかばゆるめつつ自ずと息が入ってくるに委せて吸います。
ある意味では上へは意識的な志向。下へは無意識的な委ね、と言えましょう。
このように「指南杖」は、全身がかかわりながら、呼吸、垂直の昇降、陰陽の対ラセンが融合一致することになります。
終わりに
今のような未曾有な時だからこそ「指南杖」というカラダとココロの術(アート)を急くことなく、手順に沿って行なう。それもできれば味わいつつ、楽しみつつ行なえばそれに越したことはない。これまでにどこにもなかったスタイルで「自己」に新鮮に出会えてゆけるでしょう。
「指南杖」は、この世界に幽かに、けれど確かに存在する私と、その展開の原点になる術(アート)です。
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「指南杖」の展開
実技「あまつかぜ」の基本とイメージ
※実技「あまつかぜ」については、拙著『呼吸する身体 武術と芸術を結ぶ』(新泉社)の 別章「あまつかぜ」ー 身体の叡智へ ー をご参照ください。