坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』【赤児とマイケル・ジョーダンと仏陀の舌 】の章 ‐ 〈1〉

 舌を出して身を沈める

 バスケットの神様と謳われたマイケル・ジョーダン(1963~)は、そのプレー中の振る舞いに非常に特別なものがあった。それは、その長い舌を出しながらの動きである。取り囲んでくる相手チームの何人かをかわし、抜けようという時に舌を出す。エア・ジョーダンという綽名の通り、驚異的な高さに飛躍してシュートを放つ際でも舌を出している。

 以前、テニスの国際的な強豪として鳴らしていたジョン・マッケンロー(1959~)は、ゲームのインターバルなどに、調整のためか意図的かどうかは分らないが、盛んに舌を出して身動きして顰蹙を買ったものだった。
 直接舌を露出してはいなくても、野球のイチローなども、球を打つ一瞬に両頬をふっと膨らませることが多い。このようにすると、少なくとも舌は緊張しにくいのは確かである。他にもそういう野球選手はいる。舌は、世界と人の〈からだ〉との最も直接的で、デリケートな出会いを司る場所の一つである。〈からだ〉を〈いのち〉と言い換えてもいい。このことが、人間と他の動物達(四つ足)との共通であることの欠かせない証でもある。
 赤児は、懸命に母の胸からいのちを養う乳を吸うが、舌の最も鋭い集中と全身の最も深いリラックスが協力している。母と一体的になってそこから分泌される液を受容するのに欠かせない態勢である。
 もしその態勢が妨げられれば、赤児は命がけだから、火のついたように泣き出す。
 このような原初的な赤児の営み、世界、人との交流の他の動物と共通する初源の様相が、人が成長して、様々な行為や技を行なう時にもふと出現してくるのである。それも思わぬところで。
 私も何年間かその練習を積んだ、平安末期から伝わるとされるある流派の武術があり、それにとてもユニークな技がある。それは、暗闇などで顔面や体の上部の方を剣や槍などで攻撃されたとき、身を素早く沈めて避ける術である。ともかく、舌を、マイケル・ジョーダンみたいにだらりと出して、アカンベエ状態で、すっと地へと身を沈めるのである。
 これは、誰でも簡単に効き目を試せる。はじめは口を通常のように閉じたまま身を沈めてみる。次に舌出しをして同じことをしてみると、あきらかに舌出しの方がスムーズに、素早くできる。







 私が、この〈舌〉のことで、これだ、と確信し、自らも試したりして身につき出したのは、およそ八百年以上前の、中世から続くこの武術の相とマイケル・ジョーダンの姿が、照応するように目の前に出現したからである。(もっと省ってみると、私が少年時代研究していたインドの〈大聖〉ラーマ・クリシュナ(1836~86)が日夜その前で瞑想していたカーリー女神(日本に伝来して鬼子母神となる)の舌を出した物凄い姿、ニュージーランドラグビーの強豪チーム、オール・ブラックスが、試合の前にウォー・クライ(雄叫び)のダンスをする際に舌を出すことなどが印象に残っていたのかもしれない。青木宏之師創始の「新体道」にもしたを出す技法がある。)
 ともかく、ジョーダンと古武術、西洋と東洋、現代と中世の二つが〈舌〉を通して私の裡で結合したのである。
 武術の多くは、本来、命がけのものだから、とても深く、精妙に身体を(精神も)実践的に研究し尽くしている。精妙、微妙であると同時に、あらゆる可能性を十二分に引き出すための方法であるが、それによって己の身と心を痛めてしまっては何もならないので、その意味でもよく身体の動きや構造、機能を見極めている。だから、この舌出しも、そのような研鑽から可能になったのだと思われる。
 ジョーダンの方は、天才だから、バスケットに全身全霊で取り組むうちに〈舌〉を出すようになったのだろう。素晴らしい反応をする身体と集中力をもっていたわけである。しかし、おそらく、多くの人は、今でも、これは天才にありがちな〈癖〉だとしか思わないだろう。
 次の図を見ていただきたい。

 原案は、三木成夫( 1925~87)という亡くなった医博で元芸大教授の作成によるものの略図である(『人間生命の誕生』(築地書館刊)より)。三木氏は東大で解剖学に取り組みつつ、生物や動物、人間の身体の進化、生成の仕組みを明らかにしようとした。その没後、評論家の吉本隆明が、もし、三木の理論を知っていたら、自分の言語論はもっと深められ進んでいただろうと述べている。三木氏は私の実践している螺旋やとくにメビウスの輪状の動きに関心を寄せ、その著書にもそのことを紹介してくれている(『幻獣の原型と変容』共著)。
 この図を見ても分る通り、舌は、横隔膜と同じく、前頸壁の直筋系に由来する。その支配神経は、腕の筋肉ともつながる、と三木氏は述べる(『人間生命の誕生』78頁)。だから、舌をリラックスすることで、それらの個所を通して全身がリラックスしやすくなり、呼吸も深くなる。したがって、全身もしなやかに動ける…と私はとらえる。
 下の写真にあるように、椅子に坐って身を真直ぐ保ち、身を前に倒して曲げてみる。その感じを憶えておく。次に口の中で舌をリラックスして(リラックスしにくければ、何かこれまで美味しいものを食べた感じを舌で想い起してみる)、もう一度身を前へ倒してみる。すると、前より深く柔らかく曲げられるだろう。



 もう一つ試みる。
 椅子に坐って姿勢を真直ぐ保ったまま、両手を上に伸ばしてゆっくり呼吸してみる。そのあと、やはり舌をリラックスして(あるいは美味しいものを食べたことを想い起してみる)同じことをしてみる。すると両手は上に伸びやすく呼吸が深く静かになっているのを感じることができる。
 注意すべきなのは、リラックスすることは決して、単にボーッとしたり、茫然となることではない。逆説的だがリラックスするというはっきりした意識がないと、本当のリラックスはできないのである。つまりリラックスは集中とペアでなされるのである(これは初歩の段階であるが…)。
 このように舌のリラックスで身体の状況が一挙に変容し得るのである。
 なぜだろうか? それを追求してゆくと人間そのものの本質的なことに係わってゆくのである。単に何々ができる、というHow to(ハウ・ツウ)だけでなく、それは何か、そうなるのは何故か、という探究が大切なのだ。その何か、何故かの探究によって、どのようにすればよいかというハウ・ツウも結果としてよりよく確実になる。明らかにもなる。
 〈舌〉は、世界と自分の〈からだ〉やいのちとの、最も原初的な、出会いの微妙な場であると述べた。母乳は液状であるが、成人になって口にする物は、固いものは適度に噛み砕いて、唾液によって半ば液状にし、そこにエキスが溶けて舌に味わわれる。味わわれる、ということはエキスが舌の感覚細胞内に半ば溶け入り、触れることである。舌というところで〈外〉―世界が〈内〉―我が身に溶け入るのを受容している。
 これがテイスト(味わい)、つまり外界をテスト(試し)していることである。口中に容れた外からの物をもっと受容するか、拒絶しようかとテストしつつ味わってつまりテイストしている。生きる原点はテスト(試し)であり、テイスト(味わい)なのだ。人や動物と、世界との交信交流の原点である。人間の赤ん坊は、母という、自己と元々は同一であった存在だが、実は〈他〉者のはじまりでもある存在との間で、テストとテイストを始めているのだ。
 ジョーダンも、平安末期の武術家も共に、このテストとテイストの原初の相を極意として用いている。
 彼は、通常対立して、我が身も硬ばってしまう敵(相手チームのメンバー)を前にしても、半ば母の乳を吸飲するのに相似した身体操作をしている。対決の唯中で対決はありながらもそこに一体性がある。最も素早く反応できる、けれど己の身と心に余計な緊張をもたらさず、とらわれずに最もよく身体の動きができる……舌出しでこれを可能にしているのである。
 自他の一体性の実現と展開の場である〈舌〉。それは最も深いところから私たちの活動を支えている構造の一つである。 

                                続く