坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』序章【 もう一つの〈からだ〉の見方へ 】 ‐ 〈1〉

 今回から予定著書『もうひとつのからだへ』の序章、【 もう一つの〈からだ〉の見方へ 】 に戻り、連載を続けます。


 行き詰まり、ハンディを負ったからだから…

 フェルデンクライス・メソッドという身体技法がヨーロッパ、アメリカ、日本等でも盛んに行なわれている。これは、柔道の創始者嘉納治五郎(1860~1938)に随いて柔道を修業しようとしていたフェルデンクライス(1904~84)が、ある時事故で脚に重傷を負い、殆ど身動きできなくなった際、どうしたら動きを回復してゆけるのかを探り探りして、様々の動きの可能性を体感しつつ分析しつつ創り上げていったメソッドである。やがて単に負傷者が動作を回復してゆくためでなく、様々の病いの回復や、また演劇・スポーツの可能性のためにも用いられるようになった。ちなみに彼はイスラエル建国初期の軍関係の要職にも就いていた。

 アレクサンダー・テクニークというのも盛んで、これは、オーストラリアの俳優だった男が、声が出なくなった時に、自らの身体で探究した。それが全身(全身心)の可能性を拓く方法になった。ノーベル医学生理学賞を受賞した科学者が、その受賞スピーチで、自らが体験したこの方法について触れたことも世界に広まるきっかけになった。筋膜や各組織を包む膜を活かして、全身を育成するファシャ・セラピーという身体技法はフランスの盲目の男性が創始者の一人である。最近日本でも名の知られるようになったピラティスという方法も、当初は戦傷や病気等でハンディを負った人のための方法であった。ロルフィングというメソッドも知られてきているが、この創始者も難病に苦しんでそれを乗りこえようとしたのが初期の動機であった。
 皆、ハンディを負った人々が始めたり、ハンディを負った人のために始められている。それが、主として二十世紀後半から、これまでにない〈体育〉として拡がっているのである。

 日本でも、整体の創始者野口晴哉師(1911~76)は、子供の時ジフテリアにかかり、小学校の時に声がほとんど出なくなっていた。少年時代の後期は様々の病いを治してしまうことで名を知られ、ある時には負傷した競走馬の足を治して、そのお礼に運転手付きのベンツに乗っていた、という。
 その治療の腕が公にはじめて発揮されたのは、それ以前、関東大震災後の焼野原で痛みに苦しむ人を治してあげようと自然にはじまった子供の時だった。
 独自の体操で名の知られた野口三千三氏も、その体育、身体観が変革したのは、第二次大戦後の焼野原でだったという。体育教師だった彼は戦前の体制も、おそらく自身も熱中しただろうその価値観も崩壊し、街も建物もすべてが灰燼に帰したかのようなときに、身体観、生命観も変革を遂げたのだと思われる。

 ここに挙げてきた例は、ほとんど東も西も、すべて近代の産業や戦争の影響を受けている。個人的にも、社会、環境の上でも、己の身が弱くなったり、役立たなくなったり、あるいはほとんど可能性を閉じられたか、と見える体験である。 いわば0(ゼロ)になったかのような体験が影を落としている。私たちの生命も体も、時代の状況と共にあることをここでも如実に示しているではないか。
 我国で戦後しばらくして流行り出した伝統的とされる身体技法の中国の太極拳でも、その一部は、伝統的な激しい武術を、脆弱な貴族達でも習得可能なように編み直した、とされている。八卦掌という、おそらく、昔のイスラム教の影響もあるとされる中国武術は、その名人の多くは去勢をされた宦官で、その身ゆえに宮中の護衛を任せられていたと聞く。つまり、筋肉派、マッチョのものではなかったのである。


 柔弱を受容する 

 本書に追々触れるように、私自身が身体技法を発想し、行なってきたプロセスでしばしばこういう人々や技法のことが念頭に浮かぶことが多かったのである。
 つまり、いわゆる体育会的なイメージのつよい体力自慢、腕自慢の発想からは、現代では、私自身や自分の近くにいる人々のためになるものは、そう生まれないのでは、と思われたのである。

 我国の身体技法の典型の一つである武道、武術の歴史を見てもそうだ。素朴に力で強弓で射たり、ものすごく重い武器を振り回した豪傑の例もあるが、むしろその逆の物語も多い。牛若丸・義経の例を見ても、お稚児姿の牛若丸が、強力至極の弁慶を舞踊りのような身捌きと技で制してしまうのは伝説とノンフィクションの混合にしても、象徴的である。他にも、老いて、身体の筋肉の力はなくなったが、身につけた仙人のような技や呼吸で、若者を圧する老名人の例は多い。古事記で倭建命(やまとたけるのみこと)が、九州で熊襲(くまそ)を倒した時には、チャーミングな女に扮して油断させて殺している。こうした物語はある種の古代的、中世的な冥さも含むにしても、英雄が単なるマッチョであり得ないこと、 時には両性具有的な存在であり得ることを伝えていたのではないだろうか。
 ともあれ、我国の身体技法の一つである武術は、如何にも雄々しく思われそうだが、その実は常にこうした「雅心(みやびごころ)」や「柔弱さ(手弱女振(たおやめぶ)り)」を含んでいるのである。
 
 その例をもう一つ挙げよう。
 幕末に、物外(もつがい)(武田物外、1795~1867)という柔術の達人である禅僧がいた。一名、拳骨和尚といった。
 両手にもった木のお椀二つで、襲ってくる武術の達人の槍をはさみつけて、身動きできなくしてしまったり、碁盤の厚い板に、拳骨をめりこませた跡が残っている、というエピソードの持主である。けれど、この彼が、武道、そして世の中の力のあり方や人との付き合いで、次のような歌を遺しているのである。
  鳴る神も止まる蚊帳(かや)の一重かな
(四十歳以下の人には、少しコメントが必要かもしれない。以前は夏、麻製の蚊帳を張って蚊を防いでいたが、この麻の中に入れば、ごく薄い布一枚の隔てによって、猛烈な雷の電磁波の襲来も断たれ、まったく安心としていたのである。)相手のどんな強烈そうな力でも、なんでもなくしてしまう柔(やわら)の真のこつがここにあるというのだ。
 このように武術はいわゆる対抗的な〈力〉や力みでなく、柔軟自在な身ごなしと、心の働きである〈とらわれのなさ〉が問われたのである。
 そのように〈とらわれ〉をなくし、柔軟に構えるにはどうしたらよいのだろう。構えといってもこの場合、何かに対抗して身構えるのではなく、自ずと対応しやすい状態に自らを置くことだが。
 実は、そのこつを、芭蕉が、見事に表わしてくれていると私は思っている。
  「松のことは松に習へ
   竹のことは竹に習へ」
 自らをできるだけゼロ(0)の如くにした態勢で、つまりとらわれ少なく自在にした状態で松や竹に対する。無邪気に松や竹の発する〈響き〉を受容して聴きとれ、習えということである。もちろん松や竹について述べられた書物等を通しての教養や知識を否定するわけでもない。

 先にあげた近代の身体技法の創始者達もその身体上のハンディのため、既成の価値や型にはまった技法や考え方ではどうにもならない自分を見出す。いわゆる健常者と異なり、力にも速さにも頼れない。己をゼロ(0)になったかのようにして、動けなくても何とかして動けるところを探ってゆく、あるいは微妙至極な、通常は無視される気配のような響きを聴きとってゆく。つまりある種のヴァイブレーションをとらえ、その響きの導くところに従ってみる。そうして動けるところを見出してゆける。


                                     続く

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