坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』序章【 もう一つの〈からだ〉の見方へ 】 ‐ 〈2〉

 万葉集と武術と医術

 〈想像力〉〈言葉〉〈からだ〉……
 本書のテーマは〈からだ〉に関することである。けれど通常の〈からだ〉とは、おもむきがちょっと異なって、いつもこの三つが互いに交差していくものとしてとらえられている。
 イスラムの哲学者アビセンナ(980~1037)は、後に西欧のルネッサンスに大きな影響を与えることになるが、元々は医学に取り組んでいた。
 彼は言う、「人を治療する第一級の方法は言葉である。第二級は薬草。そして最も低い第三級の方法は刃物(手術刀)だ」と。
 体を治療するための言葉の大切さは、これまでも様々体験上は知られているし、心身相関学というのもある。けれど一般に精神分析学は別にしても現代の医術の訓練の中ではどう扱われているのだろうか、はなはだ疑問ではある。
 人を治療するための言葉も大切だが、一見医術と反対に位置するかのように思われる武術 ― この場合は我国の伝統武術で古武術と呼ばれることも多いもの ― でも、言葉は極めて大切な要素なのである。
 万葉研究の碩学中西進氏は、万葉集大伴旅人大伴家持など、大伴氏に優れた歌人が多いのは何故か、ということを論じている。
 その名のように大伴氏は天皇の伴をし、護る武人の家門であるから、戦闘でも武技を揮って、従わない者たちを平らげる技も力をも保っているとされていた。けれど、それと並列して、常に、言葉で、相手を和らげる ― 言向けする術や心得を保っていただろう、と、中西氏は述べている。その言葉への態度や扱いが万葉の歌のセンスに通じたのだ、と。
 もちろん、遥か古代のことだから言葉は、呪術的な働きをもつとされ、当初は歌もそういう働きをしていると思われていただろう。そのような言霊(ことだま)と言われたこの働きは、私たち現代人が言葉を扱うのとは相当に異なったものとされ、そのような考え方のもとで言葉は尊重され敬われて、注意深く扱われていただろう。中西氏は、つい百数十年前に沖縄の王朝を中心とした人々が薩摩の近代兵器や軍にたやすく打ち破られる際の呪術的な戦い振りの悲劇の例も挙げてこのことを論じている。
 万葉時代から遥かに下って中世、近世になっても、武術の中には〈言葉〉の働きが考慮されていた。
 たとえば、これは私自身が古い剣術に触れた体験だが、剣の基本の前進して抜きつけてゆく技を教えられる。その技は最初はごく単純な名前で呼ばれる。ところが一定の期間して、ある程度弟子の動きがこなれてくると、その同じ技の次の名が告げられるのである。するとその技の集中度や効き目が見違えるように、次の世界が開かれてくる…という具合である。

Ⓒkajo tsuboi

 最初から、次の段階の名が告げられていても、意味がないどころか、かえって弟子には単に謎のような言葉となってしまい重荷になってしまうかもしれないのである。もちろんこれは極めて、中世風といえよう。宮本武蔵などはこうした中世 ― 古代からの冥い神秘的な言霊的な雰囲気を改め、明晰な言葉と論理を通して表現して、真の合理化を計った、として評価されてはいる。けれど、武蔵の「合理化」はそれとして意味のあることだとしても言語や精神や身体とその活動は、合理化して、容易な明らさまな分りやすさの中で、陰翳をすべて無くしてしまうことができるものでもないだろう。
 
 さて、話し変わって孔子から発した儒教は、我国に永く影響してきた。主として文献 ― 言葉によってその世界観が伝わってきたのは確かだが、孔子は、射(弓術)や御(馬術)や音楽など身体技術を士(世の指導者的な人間)のたしなみとして欠かせないと諭していたのだった。言葉と〈からだ〉とものやことをとらえる想像力の相関を直感的にとらえていた、としか考えられない。

 このように、本書中で扱う〈からだ〉は常に〈言葉〉そして〈想像力〉と密にかかわりをもつと思っていただきたいのである。
 この三つは、空海弘法大師(774~835)が〈身・口・意〉と表わしたものや、精神分析フロイトから発展した理論を説いて実践していたジャック・ラカン(1901~81)が言った三つの基本要素〈言語界・想像界現実界〉などとも照応できるものかもしれないと私は思っている。
 この三つのかかわり方は時に三つがぴったり重なり合い、時に互いに克し合い、対立したりする。結びつき方もそう単純でない、とするラカンの考え方はなかなか理解が困難な程である。ラカンは高等な位相幾何学を用いて説明したりしている。
 けれど、これは冒頭に触れたこととつながるのだが、私は思い切って次のように三つを考えれば解りやすいのでは、とも思っている。身体技法にとり組み、自分の趣きのままにせよ、その都度好みの本などを少しばかり読んできた結果、そう思う。
 それは、〈言語〉も〈想像力〉も〈からだ〉も、それぞれの領域で煮つめ充実させると、みんな ― 無、ゼロになる、 あるいは無、ゼロになった如くに、ということである、と思われる。
 想像力を煮つめて充実の極になると〈無相〉になり〈無念無想〉あるいは〈無心〉になる。
 言葉が煮つまってしまい充実の極にはいると言語を絶する状態になる。時には「沈黙」が支配する ― 言葉にならない状態 ― こそ言葉の世界の極にある(という風にその状態を言語化しているという逆説は常に含みつつも!)。
 〈からだ〉は行動や技(わざ)の中で理想的に運ばれ操られるとき〈空 ― から〉になる。〈からだ〉という大和言葉は〈カラッポになって立つ〉からきているという説があるが、これは学問的にどのくらい根拠があるかどうかは別として面白いとらえ方である。ちょうど胃の調子がよいと胃のことばど意識しなくなるように、目に故障がないと見える世界だけが意識されて目のことを考えないようなものである。そのように〈からだ〉も活動が最もスムーズに行なわれている時は意識されずに〈空 ―から、クウ〉になっている。
 〈想像力(心)〉〈言葉〉〈からだ〉、三つともその活動状態が充実し切ったとき、0・ゼロ・無・空になるのである。ざっくり言えば、とらわれがなくなる。
 ただし、いきなり〈無〉になるのではなく、一定の手順を通って〈無〉になる。その段階が大切なのだが
 そのように考えると、冒頭に挙げたような様々の身体技法の創始者たちが想起される。洋の東西を問わずに彼らは、自らの身が深く傷ついたり故障して、あたかも0(ゼロ)のような立場に追い込まれ、そこから幽かに可能性を探り探りして、遂には自分だけでなく、多くの人々に役立ち喜ばれる方法を編み出していった。
 これは、初心の0(ゼロ)である。すると、今ここに挙げたからだと想像力と言葉の〈無〉は、いわば窮極的な0(ゼロ)ではないか。
 初源と窮極の0(ゼロ)は、果たして二つのものか。それとも本来は一つのものか…。いわゆる無心にα(アルファ)とω(オメガ)があるのか。その問いへの答を本書で見出そう。

 本書には、様々な思想や哲学や文学の言葉や引用もでてくるが、決して難しくとらないでいただきたい。そのような思想のための専門書ではない。
 私は、自分の行なっている身体技法や武術とそのような思想や文学が照応することに関心を強くもってきたにすぎない。けれど確かに身体と思想は互いに呼応し、支え合うべきだ、とは確信している。



序章【 もう一つの〈からだ〉の見方へ 】完  続章へ続く



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 ∞気流法海外講習のため、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州キャンベラ近郊に出張します。次回アップロードまで少しだけ間があくかもしれません。よろしくお願いします。