美しさは味が源になっている
美(うつくしい)
義(ただしい)
善(よい)
美は、羊(ひつじ)を正面から見たところと胴体を上から見たところを組み合わせた象形文字である(白川静著『字源』以下同)
この美しい立派な姿の羊は、選ばれて祈りや儀式の際、犠牲に供される。立派な羊は当然、味も極上ということになっていただろう。神霊に捧げた後は、人間が食したかどうかは詳らかでないが、少なくとも最も価値のある羊が神霊へ供げられただろう。義や善という字も、やはり元々は羊などを犠牲にしたところに源を発している。正しさや良いかどうかを、儀式を通して神霊に問うた。ということは少なくとも建前としては神霊の関与を前提として美も真(義)も善も成り立ったのだろう。いずれにしても、本来は食すべき大切な家畜や獣の扱いが、そして味覚が今では精神的価値とされることにつながっていたのである。
先に孔子に触れたので、ここで、私が少年時代から親しんできた老子(紀元前6世紀)と舌についても述べておこう。彼は、こういっている。
「為す無きを為し、事とする無きを事とし、
…味わいの無きを味わう…」(老子第六十三章)
食物を味わい、世界の事物を感じ味わうこつは余計なことをしないこと、〈無為〉だというのである。はじめから、あれこれ、良し、悪し、美味しい、まずいと極め付けずに、味無きところから現出してくるだろう味を、静かに味わってゆけ…。
私が芭蕉の「松のことは松に習え…」に倣って、体のことは体に習え、息のことは息に委ねつつ息に習え、と思うのも、少年時代から影響を受けた老子のこうした発想の影響だと思うのである。受身だがとても積極的な受容の態勢を語っているのである。
先に、舌をリラックスするためには、今まで覚えている、最も美味しい食物の味を舌で思い起こすとよいと述べた。
これまで、このちょっとした身体の実験ゲームに参加した人々のほとんどが、日本でもフランスでもドイツでも、舌に快く、沁み入るような食物の味そのものと同時に、その食物の周囲のこと、どのような風景で、どんな暖かい、あるいは涼しく快い部屋で食べたか、物質としての食物だけでなく、食べている自分自身のさらに周囲の事や人、つまり環境のことを、同時に思い起こしている。一片の菓子を口に入れて幼児の世界が甦って進行する有名なプルースト(1871~1922)の小説『失われた時を求めて』のことを思い起こすが、似たことはほとんど誰にでも容易に起ることなのである。
舌は、あるいは舌が司る味は、生きることの根源にかかわるからだ。
故郷は美味しい
ここでもう一つ漢字を挙げてみよう。
郷(キョウ、さと)
故郷
郷土
家郷…
郷の字は、二人の士が食卓を間に向かい合って食事をしているところである。この字に食がつくと、饗宴の饗、宴会のことになる。
つまり、原郷や故郷は、安らかに楽しく共に食事ができることが伴っている。郷でとれたものや、郷に運ばれたものを親愛なる者と共に、心ゆるしつつ舌で味わうことができることこそ、嬰児期の、母乳を摂るのにも似た相でもある。けれど退嬰的な指向でもない。その時にこそ、人は、体も心も適度に気血の巡りがよくなり、呼吸も楽になりやすい。最もリラックスし、舌も最も鋭敏に働いて味わえる。そして郷土の人々とも山河とも、懐かしさに満たされて、出会える。他郷、異郷にいて荒波にもまれてきた者達が、己れの原点に還りたどりついた相、これが郷である。そこに生きるということ自体が一種の味にもなる。
逆に、たとえ空間上の故郷にいなくても、リラックスした舌から、郷にいる時と同じような〈からだ〉や身と心を呼び醒せる。
それが、古剣術やマイケル・ジョーダンの激しい動きの最中、舌をだらりと出して行なう理とつながる。
対立、対決、勝負の場面でありながら、彼らの身は、母の胸や故郷に居るかのごとく、安らかなのである。あるいはそれに限りなく近接した身心状況なのである。
舌という食べるための場は原初生命体としての根本であり、本来は精神的価値を含めて、文化、文明を底から支えるのである。
【赤児とマイケル・ジョーダンと仏陀の舌 】の章・完 続章へ続く