坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

<腹・ハラ>という<原郷> ― その1

 流れ動く絵姿のように……武原はんを訪ねた

 私は、二十歳代の中頃、二年間程ある小さな出版社で小冊子の編集を受け持っていた。私の出す企画は、私自身がこれは、と思わされた職人、芸術家、スポーツマン、武道家などの工夫や訓練、創造のコツなどを本人から聞き出してまとめる、というものだった。会社からはあまり評価はされなかったが、何とか私も工夫して、当時、たくさんの有名、無名のその道の人たちに出会ってとても勉強になった。創造に芸に取り組む人には<詩>がある、と思っていた。それは、その後身体技法の創造、工夫を始めて、これまでやってきたのに大いに参考になっている。
 その頃の企画の一つで、稀代の舞いの名手に出会い、数時間その芸などについて聞き出したことがあった。


 地唄舞いの武原はん(1903~1998)。彼女はその頃六本木に料亭「はん居」を構え、その屋内に自らの稽古場も設けていた。といっても原則弟子はとらずに、専ら自らが日々芸を磨くのである。
 その頃、彼女は年に一度、たしか国立劇場で、その舞いの会を開催していたが、まさにプラチナ切符で入手困難。大体、私の立場では会社の予算も極めて少ないし、なかなか簡単にはインタビューを申し込んでも難しい……筈だった。ところが、何と私の母方の祖父が大戦前に顔見知りだったという。早速そのことも先方に伝え、「はん居」の二階に通されたのだった。


(写真:舞姿(筆者撮影)) 



(写真:「はん居」にて(筆者撮影)、直筆サイン)


 何よりも、武原はんの舞いが「動く絵姿」のようだったといわれるように、まさに「空間の詩」。動作が連綿と途切れることなく流れ移ってゆく、その頃はそのことにも惹かれていた。なぜ、あのような動きが可能なのか、と。掲載の写真のようにその容貌も姿も極めて美しい。けれどそういう外的な条件をこえたものがたしかに見てとれた。


 地唄舞いといえば、人間国宝にもなった井上八千代(四世 1905~2004)がいた。これは京舞とも称し、祇園の舞妓や芸者衆にだけ指導するその芸は、腰がずんとしっかり地に据わったようで、私はそちらにも感銘を受けていた。武原はんとは芸風が極めて異なっていた、といえるだろう。
 井上は、どこかで「舞いは腹(ハラ)どす」と言うと書いてあった。それが、一見地味にさえ見える腰の据え方にも出ていたのだろう。
 けれど、武原はんの流れゆく美しさそのもののような舞台にも、腹(ハラ)の働きがない筈がない。


 彼女の舞台を見た、ニューヨークから来日のある現代舞踊の名手が舞台後に武原はんを楽屋に訪ねてきて「あなたは二十分の舞台の間まったく瞬きをしませんでしたね」と感嘆して語ったという。そのことをインタビューで私に話してくれた武原はんは「そのくらいは集中しますから」と語っていた。
 瞬きをしないくらいの集中、統一は、呼吸をしっかりと充実して、動作、姿勢そしてそれらと共に進行する揺れがちな想いを支える。そのような呼吸は、本当の「腹式」呼吸でなければならないのは当然である。
 いわゆる力みをもって腹を膨らませるような呼吸では必ずしもない。腹の働きで全身が柔らかく深く息をし、それが身の隅々までゆきわたる感じである。深い息によって、深層筋もしっかりと制禦されることも加わるだろう。それによって全身の筋肉、関節が調和しつつ動作できる。


 <腹>によって腰を据えるようにするのを特色とする井上八千代と少し異なった意味合いで、ここでも<腹>あるいは<肚>がどんなに大切かが分かる。(以下、腹あるいは肚を<ハラ>と表記する。)
 <ハラ>こそが様々の身体技法、芸能、芸術の力の源になる。禅も養生法も武道も<ハラ>が大切なことが、多くの日本人は今でもなんとなく知っているといえるだろう。
 身体が直接的に関わる様々な技だけでなく、<ハラ>を据える、<ハラ>に落ちる、<ハラ>を決める等々、人間の行為や決意、判断などがかかわる場として<ハラ>は意識されてきた。<ハラ>が減っては戦さができぬや背に<ハラ>は替えられない、などは極めて肉体的なニュアンスの言葉だが、<ハラ>が抜けるのは腰が抜けるのと同じく、自らの可能性を減じることに通じる。そしてサムライは、いざとなれば自らの<ハラ>を切る覚悟が問われることもあった。


 なぜ私は<ハラ>に距離をとってきたか

 ところが、私自身は長く武道や瞑想や身体技法に関わりながら、ずーっとこれまでは<ハラ>には一定の距離を置いてきた。伝統的な芸道や武術、禅などに関わる人々が<ハラ>を掲げてみせるのに会うと、少し疑念が湧くのを拭えなかったのである。


 たしかに<ハラ>は大切なようだが、時たま<ハラ>を強調する人が、何か己れの誇りというか自己の力を意識的、無意識的に、自己保持、自己装飾の基にするような気がすることがあったのである。これはどうも幾分かは私自身の感性の偏りじみたもののせいでそう感じているのかもしれない。けれど<ハラ>は術や道に取り組み、歳月をかけて練ってゆき、様々な経験を積んで自得するもの…という風にいわれると、まあ、少なくともその当時は、そこまで到らないと思っている当方は、はた、と立ち止まる他ない。ざっくばらんにいうと、とりつく島もなくなる。私は長くそう思ってもいた。


 ところが、至妙の技を見せつつ、さらに毎日修練を重ねようとしている武原はんに会ったなかで、次のようなことを聞いて、私は<ハラ>についてとても大切なヒントを得た。その当時はそういうヒントになるとは痛感しなかったが、時の経つにつれて、それがますます鮮明に分かってきたのである。


 彼女は、忙しいスケジュールのなか、年に一度、ある、たしか関西の寺の本堂の扉を閉ざし、ローソク一本を灯しただけで、その時のために練り上げた舞を一差し奉納する、と語ったのだった。観客は一人も入れない、舞い手独り(おそらくは地唄の唄い手も)の世界だが、仏か真如か宇宙自然の窮極の存在か聖なる何ものか、大霊かは聞かなかったが、それ(そこ)へ捧げるというのである。(もしかしたら私の記憶違いで寺でなく神社だったかもしれない。)


 合理精神の武蔵でも ― 「捧げる」ことと「無私」の道

 自らの身、イノチを包む世界、自然、宇宙、その窮極に何を見るか。己れの存在の源をどこに見、どのように、どこにつなごうとするか。時を重ね真剣勝負を重ねてきた技や芸は、その力はどこから来るか、どこへ到るのだろうか。
 芸能や芸術を深め極めようとすると、そういう問いと無縁でなくなるだろう。
 色々な芸能や伝統芸の世界にもあるが、奉納といっても、それが惰性になったり、そこまで行かずとも習慣や集団的習俗、風習になったりすることもあるだろう。そういうことにもそれなりに意義が見出される面もあるにせよ、それが単なる形式になりすぎると、そこから、武原はんのような緊迫感やつきつめたものが消え去ったり、薄くなったりするだろう。
 武原はんは、客観的にも舞いの最高峰の一人であり、自ら工夫しつつ、肉体上も登山をしたりして足腰を鍛えたりしていた。そのようにしてその芸を祈りとして捧げるのだ……と一種の覚悟が若い私にもひしひしと伝わってきたのだった。
 

 武術の世界でも、一刀流や居合(居合の創始者の林崎流)や卜伝流、陰流(柳生新陰流の源の一つ)など多くの流祖は神社などに長期間籠もって技の精髄をつかんだとされる。その場所にちなむ精霊や神々に授かった、と伝えられることが多い。山奥などで天狗に極意を授かった、というのもある。念流という剣術の始祖は僧だったとされる。


 ともかく、ただならぬ技、速度、力の集中発揮は、いわゆる通常の意識の状態とは異なるところから来る…これをできるだけ現代的で合理的な解明をしようとしても必ずしも十分でないものが残るようだ。


 私は学生時代に心理学を学んだ。もちろん四年間で大した勉強はできなかったし、力もなかったけれど、一つ思ったことがある。
 それは、私が当時触れていた合気道や剣術(柔道や剣道とは異なる)の中で、また瞑想で、私が多少なりとも見聞きしたり体験したことは、私の知っている心理学では説明は不可能だ、少なくとも到底足りない、ということだった。
 中には名の知れた武道家で、できるだけ合理的に解こうとする大学の教授もいたが、まったく説得力が不足、むしろ無味乾燥だった。たとえば、私が合気道や瞑想の道場で見たり聞いたりしたこと、私が合気道の師匠から施された技の感触など、大学の心理学説の遥か彼方にある気がしたものだった。


 武術の、中世的な神秘性を脱却した、とされる二天一流(俗にいう二刀流)の宮本武蔵の『五輪書』は欧米でも広く読まれるようになった。 
 だが、その彼も『五輪書』の冒頭で、「天道を敬し、観音を拝して記す」と述べている。
 また、その死に臨んでは、自分を客分に取り立て厚遇してくれた細川忠利への恩義から、細川家を護るべく甲冑で身を固めた屍を死後も一定の方向に立たせるよう遺言し、その通りにされた。


 このように武術家も、鍛錬工夫を重ねて常人を遥かに越える力をものにしても、そういう技や力を、またその器となった我が存在を何かに「捧げる」という構図があったのである。
 ところが、私が身体技法や武道をずーっと行なってきて感ずるのは、現代人が何らかの技や力を統御して、我が身を通して揮ったり実現できるようになった際、それはとても危ういことにもなる、ということだった。もちろん、かく言う坪井、現代に生きる私自身も含めてである。私自身が何度かそういう危うさを自ら感じたこともあった。


 現代人の発想に、明治までの日本人と比べて「捧げる」心得、習わしが、そうない。生きることの中で捧げる構図が含み込まれていない。
 凄い技が、何らかの努力や工夫で可能になったとしても、それを「自己」に捧げてしまっては、ある種の自家撞着状態に陥るものなのだ。自家中毒とさえ言ってよい。


 その頃は自分の身体技法や武道の研究も工夫もまさに途上にあった。けれど私は、武原はんの例を本人に直に聞いて、捧げるというようなことを、どこか心の深くの片隅に「刻み」つけられた。そして、度々そのことを想い起こしてはいた。
 全身全霊の意図的な営みが、一生を懸けようとする努力や工夫が、何か大きく、深く広いもの(ところ)に結びつけられる可能性。
 しかし一方、なかなか、伝統的身体技法などで強調される<ハラ>への広やかで真直ぐな道は、未熟ということとは少し別に、これまで述べた理由で私にとってはそう易々とは拓かれてこなかったのである……。
 
 回り道をしてこそ<ハラ>が開かれる

 ところが、そういう行き詰まりが180度、そして次の瞬間360度変換してしまったのである。現代に生きている私たちにも<ハラ>と一直線に結ばれる道が拓かれはじめたのである。そのことに触れてゆきたい。

続く