坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

人間の原郷<ハラ・肚>と<フトコロ・懐> 1

 武道と瞑想と共に<詩>があった

 私が若い頃に出会った二人の先生がいた。といっても学校の先生でない。それぞれ道場で指導していて、私が訪ねてゆき、数年以上、時には毎日のように出会い、とても親しく様々なことを教わった、瞑想と武道の師である。
 瞑想の方は内垣日親(1925~2012)といい、フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)がその伝記を著したことで知られるインドのラーマ・クリシュナ(1836~1886)に深く傾倒していた。後にはインド風の「ナラヤン」を名乗り、カリフォルニアにアシュラムを構えていた。
 武道の方は合気道の山口清吾師範(1924~1996)である。合気道植芝盛平翁(1883~1969)が創始したもので、私も幸い翁に直に接したり、庵のようにされていた茨城の道場で直接稽古を受けたこともある。けれど専ら十年近く随いていたのは翁の高弟の山口先生だった。
 最近、今さらながら考える機会があった。なぜこの方達とあれ程縁が深かったのか?……そして答えの一つが見つかった。
 二人とも、<詩>に関心をもち、感じ、理解する方達なのである。



内垣先生と語らう筆者


山口先生の遺影を抱く筆者


 内垣師には、リルケ(1875~1926)の詩の読み解き方のようなことを教わった。彫刻のロダンの秘書もしていたことのあるリルケの作品には、重力と人間の心身の関わり方、呼吸、<中心>、微妙な生命の感覚についての句が豊かに含まれている。その、時に難解ともされる詩の世界の緒のようなものを師の一文で私は掴んだのである。それは、私の後年の<身体の文法>の工夫、発想にも大いに刺激を与えてくれた。また、唐の李白(701~762)のある詩についても独自の、ほとんどスピリチュアルな解釈をしてみせてくれたこともある。
 合気道の山口先生の方は、はじめてお宅を訪ねて話が弾んだあまり深夜になって帰りの終バスもなくなってしまい、泊まらせてもらったその夜に、話題の一つがインドの詩人タゴール(1861~1941)だったことが想い出される。
 山口、内垣両師とも、いわゆる文学的な意味や次元で<詩>に詳しかったり関心をもっていたわけではない。
 何か生命や人生や行為や宇宙と私たちの関わりにある抜き差しならない、あるいは微妙だけれども確かな一瞬の光芒を見せてくれるものとして<詩>が蔑ろにされなかったのだと思う。したがって、内垣師の瞑想のとらえ方や方法も、山口先生の技も、その解釈や説明もそのような<詩>あるいは<詩情>さえ感じさせていたのだった。


 様々な専門的な職業や、それぞれの道に詳しく、経験を積んでも、その世界にきっちり埋没し、そこにいつの間にか囚われてしまって、呼吸が詰まるようになっている場合もある。けれど自分も、世間的にもそれなりの評価をされて通ってゆけるので、そのまま生涯を終わる……。そこに欠けているものの一つは……<詩> ―活々とした人間性ともいえるが― なのである。
 ある人は、どんな道でもいわゆる玄人になってしまうな、という。<素人>でいろ、という。これは少なくとも、例の能の世阿弥(1363(?)~1443)の説く「初心忘るべからず」の心得と通じるのだろう。どんなに名声を得、経験を積んだとしても新鮮な根源的な「風」がいつも入るようにせよ、ということだ。
 師匠の二人とも、そのような意味で「詩魂」を豊かにもち続けていた人だと思う。


 宗教も窮極は<詩>に到るか

 そういえば、私が二人に教わっていた時代から少し後、三十歳代の中頃に、縁あってそのお宅に月一回うかがって、坐禅と仏教、東洋思想の講義を受けていた玉城康四郎先生(1915~1999)も<詩>を大切にする人だった。玉城先生はその頃東京大学インド哲学教授としてアカデミックな世界で活躍されていた。けれど、私が数年お世話になった少人数、多くて五、六人でのその会では、時々テキストを変えていたが、ある時は高見順(1907~1965)の晩年の詩集『死の淵より』を次の教材として告げられたのには驚いたものだった。
 先生からは毎年、年賀状をいただいていたが、そこには、ここに載せたように短詩のような句がいつもあって、私はいつも楽しみにしていたのだった。これは話題になり、朝日新聞に「玉城康四郎さんの年賀状」として特集されたこともある程である(1997.1.21朝刊)。



玉城先生から贈られた本に添えられた詞書き(繁幸は筆者の本名)(上) 先生から筆者への年賀状(1999年)(下)


 しかし、そもそも、仏典や経でも、大切な箇所は偈(ゲ)といって韻文、つまり詩のような句の構成になっている。地の文が長めに続いていていざという箇所で仏が偈をもって告げたりする。あるいはまた弟子が偈をもって問う。
 そしてまた聖書では、旧約には『詩篇』をはじめとして韻文、詩句に満ちている。新約も「貧しき者は幸いなり…」「天国は幼児のようなもののもの」とか「野の百合を見よ…ソロモンの栄華の極みの時だにも、その装いこの花の一つに及ばない」「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。けれど人の子(イエス)には枕する所もない」……等々逆説に満ちた句が詩のように散りばめられているのだ。
 その逆説こそ、言葉や観念が既成の枠にはまって精神ががんじがらめになっているのを衝撃波のように透過し、破砕する。反転させてしまう。ここに<詩>の作用力の特色の一つがある。
 韻文や詩句は本来、言葉そのものが呼吸や手足の律動などと共に、身と深く反応するのである。身体上の反応と感受性が深く結びついている。


 合気道の植芝翁は、ある時、道場で稽古をしながら「わしは、全身の血液で考えてきた」と語ったのには、学生時代入門したての私は驚嘆させられたものだった。
 翁はまた、よく道場で、手振りや杖や扇子を手にしたりして、大きな舞いのような所作を見せた。並行して「スウー」という発声から始まって「アー」「オー」「エー」…と母音を、八十歳を超えたとは思えない程のハリのある、よく通るむしろ美しい大声を発しつつ行なった。これを「かぐら」と称していた。「かぐら」、まさに「空間の詩」のようだった。一度、文字通り目が洗われたような気がしたことがあったのである。翁はその動作の前に「天地の創造」や「神ながら」などの神道的な用語で解説もすることが多い。だから、それは確かに神社で行なわれる「神楽」のような、やや宗教的な祈りの混ざった動作にも見えた。けれどそんな区分けを超えて不思議に魅せられるものだった。道場に集った、おそらく芸術や文学などにそれ程縁のないと思われる、合気道を武道や体育として稽古しようとする人たちも何かわからないが、自ずと時には呆然と心を奪われてしまうのだった。



稽古場の植芝翁(いずれも筆者所有の写真)


 <詩>の様々な側面


 ここまで挙げてきた私が接し出会ってきた人々に、こうして私が抗し難く惹かれてきたことの一つには、たしかに<詩>あるいは<詩>に通じる何かがあったような気が改めてする。
 けれどこのような<詩>とはそもそも何なのだろうか。私にはこれを正面から論じるだけの力はない。自分で詩は作らないし、たくさんの作品を読んだわけでもない。けれど、こうして惹かれてきた体験などや多少の、関心が赴くままの自己流の読書や耳学問からなら、自らの手がかりになりそうなことは汲み出せるかもしれない。
 きっちりと系統的に、論理的に述べるのはとうてい手にあまるが、思いつくことを幾つか並べてみると、何かが浮かび上がってくるかもしれない。


 詩の言葉は、散文などの起承転結や筋だった論理の枠におさまらない。そういう型にはまり切れない言葉が思わぬステップを踏んだり、ずれたりする。型にはまり切った言葉がいつの間にか生気を失ったり、生硬になったりしているのに衝撃を与えたり、崩したりする。
 人は道具と共に言葉によって、それまでの動物―霊長類から一歩抜きん出て文化、文明を成してきた。そこに言語の力が欠かせないのは自明だが、いつの間にかその目覚ましい作用をもたらす言語が枠となりすぎ、檻となってしまう。そこに言葉で一撃を加え、揺すり、風を通すことができるのが<詩>である。もしかすると、釈迦やイエスはそのような<詩>の中でも最も本源的な<詩>を伝えようとしていたのかもしれない。


 プラトン(BC427~BC347)は、その「イデア」についての思想が後に後代の神秘主義思想を裏付けるとされた程だが、その『国家論』では理想の国家像を描き出そうとした際に、そこから詩人を排斥したことは有名である。詩人の恣意的な発想や言葉が、理想的な言語による秩序を壊す働きがあることを嫌ったとされる。
 だが、逆に国家や政治にとって<詩>が大切な役割をすることを活かそうとした歴史もある。中国の「科挙」という官吏登用試験は隋から清の時代まで1,500年も続いた制度である。その試験で最も大切にされたのが詩文作成であった。実際は色々な制約や事大主義もそこに絡みついていたにせよ、詩文を大切にした元々の発想は、漢字や古典の教養などと共に発想力や感受性、民の気持ちを汲む心や創造力などが問われ、養われたのでは、と上記のことを私はある学者から聞いたことがある。
 その学者はもう一つ<詩>について教えてくれた。
 徳川幕府は、権力を掌握した際、皇室をどう扱うか様々な戦略を練った。その一つが、皇室の成員に古典などの(つまりそのほとんどは中国からのもの)教養を禁じた、というのである。真の教養からこそ思想が育まれ、歴史の中での正当性が問われたりするからである。しかし幕府側は、和歌という詩は、もともと女文字のものだから目こぼしした、と。しかし、実はこの短歌の中にこそ志(こころざし)や想いや気脈が伝わっていったのだ、というのである。プラトンや中国の科挙や和歌については私の耳学問にすぎないけれど、<詩>にはこういう側面もあるといってもそれ程外れてはいないだろう。
 私が、合気道や剣術にとり組み様々の身体技法を探求してきたのも、その奥には<詩>の追求があった。身体技法はもちろん詩でも文学でもなく、武道や合気道はいわゆる表現をアピールする芸術ではないにしても、その奥底にはやはり<詩>の追求が終始あった、と今省ってみると言える。私が『文武随想録』を試みているのもそんな気持ちがあったからである。


 剣術の「燕返し」は身の裡にある自然 ― <詩> ―でもあった

 私の体験を書く。
 私が行なってきた古えから伝わる剣術の技に「燕返し」がある。あの宮本武蔵(1584~1645)の宿敵として名高い佐々木小次郎(?~1612?)の得意技として有名だが、私が型を伝えられたそれは小次郎のとはどんな関係だかは分からない。(私が触れた流派は、それより古くから伝わるとされるが、全く文献がなく伝わっているので、一般の歴史や武道史には出てこない。そのため専門家からは無視されるかもしれない。)


 私の伝えられたのは、思い切って上段から袈裟懸けに左方下へと斬り降ろした剣を、その勢いそのままに、むしろその勢いを活かして反転させ、右斜め上方へ、つまり、今袈裟懸けで斬り降ろした軌道を逆走させるようにして右上方へ斬り上げる。最も下へ走ったその剣を、その最低の場所で、反転、翻らせて、刃を上に向けて斬り上げる……ここが難しく、ここが極意のツボとなる。
 猛烈な速度で一方向に行くのを、逆方向へ反転させる……そこは全身で感じ全身で成す「間(マ)」というしかない。
 掌の中の剣の束を捌くのを「手の内」というが、その「手の内」は決して手のことだけでなく、腰、腹を中枢に足先までを参加させて剣の刃の向きを転じさせて上げる……。
 私はこの技を、まだ完全に100%ものにしたわけではない。けれど、できた、と感じることがある。英語を勝手に用いて言ってしまうとrealize(実現)できたことをrealize(実感)したのである。


 それは、とても充実感の深い、何か、自らの存在の深くに触れたような、あるいは宇宙・自然の深いところにあって普段を閉じられているしくみに触れてしまったような感じである。
 上手にいった!という感銘よりも、何か自分の身の奥に潜在していた光のようなものが、今、閃光を放った、ということである。
 たしかに、この味は特別な感じもするが、同時に何か身の中にある、とても親しく懐かしい、大切なものの一端に触れた喜びなのである。つまり、これは、静かにしっかりと人間の生命をとらえた時にこそ感じられる、裡にある宇宙の働きのような感じがするのである。「燕返し」はたしかに習得はそんなに安易にはできない。けれど何か、とってつけたような離れ技でない。真の人間性(それは宇宙・自然の中にある…)に属しているものなのである。あるいはこの身やこの身の動作を通して、深く宇宙へ通じる大いなる道さえ感じられるのである。
 その感動は、私には<詩>のようなものだったのである。ここにも<詩>がある、としか言いようがないのである。


 「燕返し」以外の技も、また異なったニュアンスで、深い人間性―宇宙性を感じさせる。つまり、私に言わせれば、そこに<詩>がある。
 太陽や月の運行、山の季節の変化、微妙で幽かな土や植物の気配、「陽炎」の名がついた技もある。
 しかも、ある技は、初心には初心用の技名が伝えられる。しばらくすると、同じ技なのにその次の名が伝えられる。初心に当初からその二番目の名が伝えられたとしても、意味ないどころか、初心者は余計なイメージをもつことで躓いて、むしろ害になってしまうのである。
 自然を観察していれば、そこはかとない気配や猛々しい動きや勢いの発揮される場面等々がとらえられる。武芸者は、それを観察し抜きながら、己れの動作に映しこんでゆきながら、技の次元を、自然や宇宙と同化してしまおうとする。


 己れの身中、あるいは存在の裡に宇宙が漠然とあるのでなく、その働きが我が掌中や呼吸、腰や腹の動きで呼び醒まされ導入され、実現される……。「燕返し」を行なってみた私の感動はそこにあった。その他のたとえば柳生新陰流一刀流などの幾つかの古伝の技にもそんな感じがある、とそれ等の技名を通して感じるのだが、果たしてどう伝えられているのだろうか。おそらく現代では基本的には何の役にもたたない古くから伝わる技……。もちろん、たとえば「燕返し」の技の反転の呼吸は、何か―たとえば人との出会いや会話の機微の発露など―の際の呼吸や様々の具体的な身ごなしなどの役にたつことがあるだろう。そういう実践上のこととは別に、ただそのものを、技の性質上しっかりと「実際」の場面を想定しながらも行なうこと自体に、ある種の深いそして活々とした意義を感じるものなのだ。むしろ、窮極はその技を上手にするということ以外には何もない、無償の行為にこそ稽古の真の醍醐味はあるだろう。


筆者の剣の型


(人間の原郷<ハラ・肚>と<フトコロ・懐> 2へ続く)