坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる―共感の力へ《8》

リラックスと指揮者小澤と甲虫
 元ウィーン歌劇場の指揮者だった小澤征爾氏が、若い音楽家のためのセミナーで指揮法を伝授するビデオを見たことがある。二十年も前のものだが。
 楽団を前にして、指揮台に立ったその学生が、頭上に振り上げたタクトを、勢いよくパッと急発進して振り降ろした。
 と、小澤氏はすぐに止めた。
 そして、その学生の真似をしながら、君のように鋭角的に、直線的にではなく、このように…といって、振り上げたタクトを微妙なほんの短い間、空間の同じ位置に置いておいて、それから振り降ろしてみせた。振り降ろすその間際には、そこにいわゆるごく短い時間の経過があった。日本文化でよくいわれる「間(マ)」である。
 この幽かな間隙によって、何が起るのか、楽団員がタクトに注視する意思がよりはっきりし、指揮者と楽団員の意思の結合がそこでより密に計られるようでもある。
 相手に自分からただ一方的に働きかけるのでなく、よりよく「出会いつつ」相手を充分認めつつ、相手に働きかけてゆく。
 これは、極めて身体的であり、時に生理的なことでもある。前回で触れたバロック音楽ダ・ヴィンチロダン等々の波動やラ旋世界にも通じるものだろう。前回から言っている〈共感力〉がそこに働いているのだ。
 小澤氏は若い時フランスの著名な指揮者のシャルル・ミンシュにも学んだが、ミンシュから学んだあるとき、「リラックス! リラックス! リラックス!」とアドヴァイスされたという。リラックスすることを学ぶために、小澤氏は確か空手道場にも足を運んだことがあると記憶している。
 もちろん、リラックスとは、単にゆるみ切った状態ではない。
 リラックス状態と意識的な集中が一致、調和したような状態が、スポーツなども含めあらゆる術や芸のこつである。そればかりか、日常生活の様々な活動や瞑想の世界にまで、このリラックスと集中の調和の原則は働く。多くの場合は「集中」の方に重点が行き、リラックスを忘れてしまうのである。
 小澤氏に学んだ若い音楽家は、タクトを振り降ろす際にこのリラックスを忘れた、あるいはリラックスができなかったともいえる。そこで彼と楽団員の間に緊張が走り、交流が硬くぎこちなくなった。
 指揮は、もちろん合図の方式が基本的に定められている。指揮に限らず、定められた合図の方式や記号や言葉は、人の意図を明確にする。しかし、記号や合図や言葉だけに頼むと、現実の場面では、何か不足のものがでてくる。そこにはゆらぎや曲線、ラ旋的な展開が欠けている。人間の身体性を含む「自然」性が欠けてくる。
 日本で有名な、ある昆虫写真家が述べていた、とても興味深いエピソードがある。彼は少年時代は山や野に親しむ機会があまりなく、高校になってからはじめて山小屋に泊まることがあった。泊った夜、はじめて体験するような暗闇の中で布団に入ってうとうとしていると、かさかさと妙な音がする。懐中電灯で照らしてみると、丸太の壁を甲虫が這っていた。黒のつやのある鎧をまとった生き物とのはじめての出会い。その姿への讃嘆の混じった驚き、目に飛び込んできたその光景、瞬間が彼を日本を代表する昆虫写真家にする原点となった。(註1)
 彼は言う、もしはじめから甲虫の知識を図鑑か何かで色々頭につめこんでいたり、家で籠の中で飼っていたりしたら、あんな新鮮な感動はなかっただろう。
 「出会い頭」ということがある。出会い頭の驚き。「いきなり」であり「今!」の感覚だ。いわゆるサプライズの誕生祝いなども少しそれに似たことを狙っているのかも知れない。
 私たちが生きている時間は、本当はいわば出会い頭の連続である。しかし日常生活の営みの殆どが慣性化され、「今」がそこに立ち上がらなくなってしまう。そうしなければ対応が大変すぎていのちが保たないかも知れない。しかし、時間の中に生じてくることを予め知識や言葉でパックしてしまいすぎると、出会いの中の生々しさが失せてしまうのも事実だ。
 小澤氏の場合。クラシック音楽は何千、何万回と練習やコンサートで演奏され、繰返されてきている。そこには楽譜通りに、厳密に決まりきった合図や記号が行為を制し、指示している。そのような決まりきった合図や記号を、あたかも少年と昆虫の出会いのように、あたかも「出会い頭」のようにすることも小澤氏の工夫であり、意識だろう。
 前述したように、そこにリラックスが働いたり、ラ旋的な動きや原理が働くのが望ましい。だからといってそれは単に「自然」なことでもない。「自然」に近接するためにはとても精緻な工夫や知慧が必要である。
 そして、その工夫や知慧も、さり気なく、「自然」になされなければならないだろう。
 小澤氏が若い音楽家達に教えたのはそういう工夫だが、同時に、そこには、音楽の指揮に限らない原則のようなもの、人と人が出会い、合図を交わしあう時の、ある種の基本的なマナーのようなものがある。
 一方的に、自分の意図や記号を相手に、タイミングを構わず送ったり、単純に強制するように伝えるのではなく、まず相手と自分が、その場に存在していることを受容しつつ確かめつつ、その中から方向性を出すようにする。記号や意図を伝えること自体が一つのアートになり得るのである。


「出会い」の構図―合気道
 私が若いころ武道の稽古の中で行っていたのもそれに似ている。
 合気道の道場では約束の型の中で、相手が攻撃してくるのに対しながら、当方が相手を制するようにする。約束の形ではあるが、相手が相当思い切って当方に掌を刀の刃に見立てた手刀のような形で、目一杯斬り込んでくるのに、当方はそれを迎えるようにしつつも相手の方へ出て行って、伏せるような形に収める。(巻末のvideoを見て下さい。当時私が道場で繰返してした稽古をいわば体で憶えているのを、その後、工夫してきたものを加えて試みている。)
 実際上、つまり護身の時や、格闘の時には、まず、こんな形で相手が襲ってくることはない。
 ではなぜこんなことをするのだろうか。
 これは、それがどんな形であれ、集中して当方へ向っている相手の気勢や、我が身へと集中してくる激しい力や攻撃と、どのように対し、出会い、受け取り、それをできれば自分と相手にとってよりよい場面や局面に転ずるか、というこつをつかむための方法なのである。
 相手との出会い方の最も端的な方法である。合気道創始者植芝翁は、この方法を稽古法としてとても大切にしていたと憶えている。
 もちろん、相手が手刀で撃ち込むような形は、往古のサムライが剣を振りかぶって撃ち込んでくるのに似ている。最初は、そういう意味の技の型だったかもしれないし、植芝翁が若いころ学んでいた大東流という柔術も、この動き、あるいはこれに似ているものを「一ヶ条」として指導しているようなので、別の意味があるかもしれない。そのような専門的な由来の詳細については、私には断言する程の知識は不足している。
 けれど、一つ、私が自らの経験上は指摘できることがある。この基本中の基本の技が、本当にすべての技の「基本」だ、と納得できたとき、それは、あなたが、この基本を身につけたことである。基本が基本であると納得したら、その基本の基本としての役割は相当果たしはじめるのである。これは合気道、あるいは時には合気道以外の武道の技にさえも、色々の変化、場面、技に適応できる可能性があるのである。
 さてこの基本、合気道では「一教」と呼んでいるこの技法、武道での相手との出会いの第一歩を実現するために大切なこと。それは、相手に対して己が身を護る気持ちのあまり、身心を固く閉ざして構えつつ技をしようとすると、相手の動きや力の方向や気持ちをとらえにくくなる。相手と断絶するようになる。
 もちろんいわゆる油断があってよい訳はない。不安が強いのもまずい。けれど、当方が用心のあまり固く構えると、相手も自ずとそれに対して身を縮まらせたり、ともかく緊張して、当方へ関係を閉じがちになり、身を固くもする。
 そうなると、いくら道場の仲間との約束稽古でも、この技はすっきりとはかからない。強引に力でねじ伏せたようにしようと思っても、相手は力で押され、強制された感覚が生じ、無意識にこちらの把握から逃れようとする。自ずと体がそう反応するのである。たとえ一応型通りに何とかもっていったとしても、強制され、力づくでもってゆかれた感覚が相手の体に残るものである。体が充分には納得しない。
 この技が妥当にかかると、当方も相手も双方が体も心も解かれ、のびのびすることさえある。「交信・交流」がとてもうまく行った状態にもなる。それは「共感力」が互いに充分働いている状態である。(註2)


「汝」と呼びかけるとき・・・
 武道と音楽の指揮とは、一般にはまったく世界が異なると思われるだろう。けれどこの「一教」のようになると、武道、芸術のジャンルにかかわらず、人と人が出会って交信、交流するのと同様の原則が働く。そこにどのようなことが生じているのか、その構図を幾つかの側面から説明できるのである。単に机上の理論でなく、人と人の様々な「出会い」に実践的に適用する理論の試みもできる。その中の一つ―
 私は、二十歳台の前半、ユダヤ人の思想家、マルティン・ブーバー(1898~1965)の『我と汝』という代表作の一冊を読んで、難解なところもあったが、とても感銘を受けた。
 彼によると、世界と人の間に、「それ、これ、あれ」など第三人称で呼ぶ場合と、「汝―あなた」と第二人称で呼びかける場合がある。これに一人称の「我―私」を加えて三つの人称を「根源語」と、とらえる。第三人称ではなく、何者かに(それは人間とは限らず、その現場に存在するとも限らない)「汝」と呼びかけるとき、人は必ず自らをいわば「開いて」いて、呼びかけている対象と関係づけられている。「それ」の呼びかけでは絶対に喚起されてこない関係がそこに生起している。我と汝の間には壁がありようがなく、深く活々とした「結び」の可能性が生じている…「結び」というのは、この場合は私(坪井)が思いついた語なのだが…。
 さて、こういう我と汝の関係こそが、この「一教」にも、ひいては卓れた武道の技にも見られる…と私は思う。(註3)―巻末のvideoを参照ください。
 たとえ相手が敵としてあらわれて、当方に向ってきても、当方が「開いて」いなければ本当の技にはならない。技をする方もされる方も実感として納得できる「一教」の技は成り立たちにくい。
 外見的身体的な運動や格闘技のように見えるが、実はこのような最も「根源的な」存在の態度や構えが問われるのが、少なくとも私が通っていた山口先生の道場の合気道だ、と私には思われた。(註4)
 繰り返しになるが、一般に武道については、交信、交流とはまったく逆のイメージがあるだろう。
 交信、交流や対話、会話、討論が成り立たなくなった挙句に必要とされる術という歴史が武術には必然的にある。有無を言わせぬ実力行使…暴力…それによる威圧。今でもそう思われている場合もある。そしてそう思われるだけの理由も与えている場合もある。そのことは今、ここで論じることはしない。
 けれど、この「文武随想録」の第一回にも述べたが、たとえば柔術とは「武器をもって攻撃してくる相手を、その武器を使わせないように封じ、時に武器を取り上げ、対等の立場で対話できる状況を作る、そのような効用がある」術とする、我国の著名な演出家の一人で、その祖父が著名な柔術家だった竹内敏晴氏のような考え方もあった。竹内氏は柔術をした人ではないので、これは彼の思い入れも入っているかもしれない。しかし、柔術だけでなく、剣術の達人達の中には、なるべく自他を傷つけずに平らかに治めることを理想として、それに伴う術さえ工夫されていた。「共感力」を根本的なものとしていたのだ、と、私も私の「理想」をこめて考えている。時々、武道の愛好家に見られた傾向―「和」とか「愛」とか、どこからも逆らいにくい、いわば「最終言語」を掲げて、その金科玉条を床の間や額の中に掲げるようにして飾り、いかにも後生大事にする一種の「観念論」に終わってしまうこともある。けれどそれを単に美辞麗句におわらせずに、実際にそういうことを思想の面でも技の面でも、両者を一致させて実現しようという傾向も一部にあり、植芝盛平翁によって、合気道として結実した、と私自身は思っている。また、同時に伝統的な武道にはあまりなかったものも時代の変遷によってそこには入っているかとも思われる。


エスペラント―平和への祈りから
 植芝翁は、若い頃、大本教という、神道だが、伝統的な一般のそれとは相当異なった発想も含む宗教に出会った。植芝翁は後年大本教の組織そのものとのかかわりは少し変えたようだが、その指導者の出口王仁三郎氏(1871~1948)を深く尊敬し続けていたのを、私は晩年の翁の口から直に聞いたことがあるし、その子息で盛平翁の後継者として二代目の「道主」となった吉祥丸師のその名は、王仁三郎氏がつけたもの、と、これも吉祥丸師から直に聞かされている。
 王仁三郎氏の影響抜きには、合気道の成り立ちは語れないのではないだろうか。私は大本教のことを詳しく知る立場にはないが、ただ一つ、注目すべきその活動の一つは、エスペラント運動ではないかと私自身は思っている。エスペラントとは十九世紀末、民族紛争渦巻く世界情勢の中でザメンホフ(1859~1917)というユダヤポーランド人が創唱とした人工言語で、その本には世界の平和への強い願望があり、「中立的」な共通言語を目指したのだった。
 大本教も早くからこの運動に関わっている。元々大本教は、その創始の地は、京都府とはいえ片田舎でありながら、王仁三郎氏はすべての宗教は本質的には同じであるという発想の傾向も持ち、諸国の様々な宗教とも交流、連携していた。もちろん植芝翁にも、そういう動向に賛同するものがあったのではと思われる。合気道が、「武は「愛」なり」とするのには、そういう流れもあったと想像するのだが。
 植芝翁は、私が二十歳台、道場に通っていたころには八十歳を越えていたが、元気で機嫌良く若い人達に見事な技を示しながら、白い見事な髯をしごきながら語りかけたりしていた。
 そんなある日、翁は、ふと、合気道は常識よ」と言った。隣にいた友人はそれを聞いて「わーっ」と嘆声を発しつつ、思わず少し体をのけぞらせてしまった様を今でも憶えている。これには受けとり方は様々あるだろう。今はいわば合気道は門外漢の立場であるが、当時相当熱を入れて稽古に通っていた私が受けとったのはこうだ。(今もそう思っているが)
 この場合、常識とは、人間の存在の基本に本来備わっている、最も根源的な働きとその構図である。それは、人と人との間、人と自然との間の関係のあり方、マナーの中に共通するものである。つまり、必ずしも何か特別な、形式や型でなく、その型や形を支えている根本的な原則…。
 それは、私には、たとえば、先に述べたマルティン・ブーバーの「根源語」に通じるような発想かとも思えた。今思うとブーバーのそれは一部に過ぎないが…。
 私には、それは道場で皆がレッスンとして行なっているかたちとしての合気道にも必ずしもこだわらないものと思えた。
 それはまさに普遍的であり、宇宙的である。普遍的、宇宙的な原則のようなものが、「常識」として具体的に合気道の技や型を支えているともいえる。
 私は植芝翁が語る「常識」ということを、そのころはまだ「共感力」という発想には到っていなかったが、今から思えば、それに近いものとして感じていたのかもしれない。


宇宙的で普遍的な「常識」
 私は、この「常識」を、ジャンルを超えて探りたくなった。それは殆ど一つの衝動となった。
 そこで私は、あらゆるジャンルの達人といわれている、有名、無名の人々を訪問しては、できればその仕事場を見学させてもらい、彼らの体験から絞り出されたエキスのような言葉を聞き出した。それを記録して発表したものもある。その中には様々なジャンルの武道家もいたし、行をする宗教家もいた。職人達もいた。もちろんできる範囲で本も読んだり、文献も調べた。(註5)
 そうしているうちに、やがて、そこに見出された、ジャンルを超える「常識」を、実感しやすく、手がかりをつかみやすく、体感し、体得しやすくしようと、「身体の文法」と銘打って、少しずつ展開しはじめたのである。その発想の端緒については、この連載の前回に触れた通りである。(註6)


 さて、ここまで書いてくると、銀座のレストランのマネージャーが、しばらく稽古に来ないのに、道場に来てみたら技が上達していた、ということも納得しやすくなるだろう。
 実は私は彼の職場での詳しいことは知らない。けれど、次のことは容易に想像できる。
 つまり、彼は職場で、責任ある地位に就くことで、それまでよりも「常識」が問われたのである。人と出会い、折衝し、自己を抑制したり、思い切って主張したりの加減や、相手をどう受け容れたり、またそうしつつ時に相手の意見を制御したりするか…それを体験し、そこで「常識」の発揮が、自ずとなされたのであった。
 この場合の「常識」―それは、もちろんいわゆる知識を増やすことでない。繰返すが常に共感力と関わってくるはずだ。そして、先に、マルティン・ブーバーにかかわっても述べたばかりだが、言葉、想像力、身体あるいは現実の三つがそこに関わっている。(つづく)

                    平成二十三年八月二十九日


(註1)
 ここに出てくる体験と似た私自身の体験を述べよう。
 ある夏、私は家の近くの桜の並木道を歩いていた。その夏も猛暑で、とくにおびただしい油蝉が湧き出すように鳴き盛っている。
 と、傍の樹を見ると、桜のごつごつした黒褐色の幹にも一匹とりついている。
 鳴いていたかどうかは分らない。私の目より少し高い位置で、近づいて視線を注いだ時は、声はなかった。
 と、その蝉は、何と、じりっじりっと後ずさりしはじめたのだ。節くれだった足でゆっくりと幹を下ってゆく。
 私は驚嘆した。蝉が後ろへ歩いてゆく、と、私のイメージや知識の中にまったくなかったことが、今、目の前に生じているのだ。
 夏の盛りの昼下がり、私の目線も心も、その蝉も一つになってじりっじりっと動いていた。
 さてこの体験は、実をいうとつい数年前のことで、後に昆虫の有名な写真家になった彼は少年だった。私は六十歳台後半だった。けれど、その体験自体には少年も老年も消え、年齢は係わらない。それそのまま、「驚異の空間と虫と心と…」があり、私は多分その少年と同じように少し息を呑み、その「時」にいたのである。「今…」そして―ここで蝉に関しては昨年の俳句を記す。
 仰向けの 蝉の骸(むくろ)に 蝉しぐれ      香譲

(註2)
 これは、今は合気道の道場からは離れ、「身体の文法」を研究、提示してきた私が、かつて道場で行なっていたことをもとに今感じ、考えていることを述べているのであって、合気道そのものに終始取り組んでいる諸賢やその組織としては、その立場としての識見が出されていることと思う。詳しいことはそのような説明を充分参照していただきたいと思う。私は「やわらを入れる―共感力」の立場から述べているのである。

(註3)
 マルティン・ブーバーの「我と汝」の発想は、しかし、武道や合気道やひかりの武の「出会い」の原則を全面的に解明するものでもないだろう。あるいはすべての解明法でもない。実は、一人称、二人称、三人称でもない「原人称」とも「未人称」ともいうべきとらえ方がある。
 これは、ヴェーダンタ哲学や、禅にもその発想があり、能の世界で面(オモテ)を掛けて(つけて)舞う能役者も、「原人称」の状態になることを語っている。武道の出会いの世界でも充分あり得る。

(註4)
 今、私たちが行なっている∞気流法の「やわらげの武」の手合わせの中で、「やわらげ」という型にそれを活用し、武道の枠にこだわらぬ、さらに一般的な「受信・発信」する生命個体の基本律の稽古の工夫がなされている。その説明、紹介は、後に本格的に行う予定です。

(註5)
 今、思い出すまま、ざっと書いてゆく。皆、実際に出会ってインタビューに応じてくれたり、会話を交わした人々である。 
 脳性麻痺の児童達をリハビリする施設の教師の富永氏。盆栽の達人。野球の名選手だったジャイアンツの川上哲治氏。氏は現役選手のとき、時速百数十Kmある速度のピッチャーが投げる球が、それを撃つ一瞬には「止まって見えた」時から打撃が著しく上達したことでも知られている。スポーツでは、他に富士山の山頂からブレーキにパラシュートを用いて滑走してみせたプロスキーヤー三浦雄一郎氏。氏はその後、エベレストの高所で滑走し、世界中をあっと言わせた。ヨガの大先達、中村天風氏。マクロビオティックの創唱者桜沢如一氏(別名ジョルジュ・オーサワ)。刀鍛冶で人間国宝の宮入昭平氏は信州の仕事場に訪ねた。名古屋の東山動物園で、ゴリラを三頭育て上げ、ユニークな芸をさせていた浅野氏。鎌倉に訪ねた文芸評論家の小林秀雄氏は、私が高校時代から私淑していた。この中で中村氏は、講演会場の入口で二言三言声をかけられただけだが、それ以外は、皆小一時間以上、数時間は会話を交わしている。会話といっても、私は専ら聞く方だが。この他、友人の紹介で三島由紀夫氏と出会い、人間の身心の中心(ユングが言うように白人は頭、ネイティブ・アメリカンは胸、そして東洋人は時に「肚」で考える)というようなテーマで話しを交わしたことを思い出す。氏の切腹自決の二年前だったと思う。氏が最後の小説の取材のためにインドに行ったことが話題になったことも思い出す。
 他に、個人的に会ったり、話しを交わしたことはないが、深い印象を受けたのが、学生時代に大学に講演に来た鈴木大拙氏である。もう九十近かったのだろうか。静かで和らかく深い呼吸を感じさせ、大きな声ではないのに話しの内容は大会堂の隅々までよく通った。政治的な紛争に暮れていた時節だったが、学生達も熱心に静かに聞き入っていた。
 私はすでに大拙氏の著述に少し触れてはいたものの、その後、スエデンボルグの『天国と地獄』を日本で初めて訳したのが大拙氏と知って実に感慨深かったのである。

(註6)
 前回は主として呼吸のことに触れたが、実はその最も根幹になったのは「重力」である。人間が地球の引力との関わりで、少なくとも部分的には引力に抗するように直立し、一歩を踏み出して、様々な活動をし、やがて、引力にすべてを委ねて、横たわって眠ったり、息を引きとる…その「引力」「重力」とのかかわりを感得し、思考してゆく、実感法、技法を「身体の文法」の第一としたのである。もちろん直立二足歩行は、ヒトがヒトとなったその原点であり、人の行為も意識もその原点からとらえるべきである、としたのである。



稽古風景(坪井香譲)/a scene of practice (Kajo Tsuboi)