坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』【 円相が呼吸する 】の章 ‐ 〈2〉

 円は空海親鸞日蓮にもあった

 円相は人の身心や行為や技やコミュニケーションに深く関わり得る形だ。私は、敢えて人間の存在の様式、あるいは構図に関わると言いたいくらいである。
 人類と円相との関わりはおそらく月や太陽の円輪に発するかもしれない。五木寛之の小説『親鸞』に、二上山の傀儡(くぐつ)の女が唄う場面がある。
  おやをおもわば ゆうひをおがめ
  おやはゆうひの まんなかに
 これが(おそらく五木氏のフィクションだろうが)、その後の親鸞南無阿弥陀仏の信仰を暗示することにもなっている。ほぼ同時代の日蓮の方は、同じ太陽でも朝日の鮮烈な光と共に法に目覚めて、その活動を始めたことになっている。東方 ― 朝日の題目、西方 ― 夕日の念仏の対比が鮮やかで、その後の日蓮系統と浄土門系統の活動、傾向とかかわっているようにも思われる。

 少し時代は遡るが、空海弘法大師を祖とする真言宗では、瞑想の際、月の輪に、真如あるいは宇宙の初源を意味する〈阿〉の字を描いた図象を行者の前に掛けて行なうのを基本としている(月輪観(がちりんかん)あるいは阿字観)。この際複雑なことは省くが、この月による円相を前にして、瞑想者は、ゆったりと心を落ち着けやすくなり、同時に統一しやすくなる。

 禅宗では、形にも色にも物にも人にも、仏陀にさえこだわらぬことを教えるが、それでも中国では七世紀頃から、禅僧が〈悟り〉に達すると、その表現として筆で円相を描くことが始まった。その習わしは我国にも到って様々な禅僧が様々なスタイルで円を描いている。円は〈無〉や〈とらわれなき心の働き〉などの象徴となってもいるわけである。



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 韓国では二十世紀前半に、仏の代わりに「円」を中心に据える「円仏教」が創始され、以来、社会奉仕や教育活動にも広く携わっている。そのくらい仏教と円は照応するものがある。
 もちろん神道でも、多くの神社では円い鏡を社の中心に据えている。すべてを映し出す鏡 ― おそらく、技術的には他の形より制作が難しいだろう〈円〉の鏡をなぜ用いるのか ― やはり、それははじめは日、月などの天体に触発されただろうにしても、〈円〉のもつ微妙だが強力な働きのせい、としか思われない。いずれの場合も、感覚 ― 視覚を通して得られる円のイメージだが、結局は〈からだ〉にもはっきりと働きかけるのではないかと、私自身は身体技法の体験などから思うのである。

 指で丸をつくって見せると、私たちは「よし」とか「OK」とか「大丈夫」の意味ととるが、大体においてヨーロッパでも同じである(むしろ西欧から来た身振りだろうか?)。実は、指先の〈マル〉だけでも、場合によっては、とても大きな効果が全身に及んでいる。次のちょっとした実験では、思いついてすぐに何人かにやってもらった私自身が仰天したくらいの結果が出たのである。


〈ボディ・テスト・ゲーム〉 親指と人差指でこしらえた《丸》でも体にも効く《OK》印である
①床に坐って両足を伸ばす。
②両手を伸ばしてできるだけ屈伸してみる。つまり柔軟性のチェック、これは一度だけ。



③両手首から先をブラブラと振って充分リラックスする。
④左右の手の親指と人差指で各々丸印をこしらえる。指同士は互いに柔らかくくっついているだけでよい。硬く締めすぎないこと)。

⑤②と同じチェック。②よりも柔らかくなる人が殆どである。

 実は、指先で丸を作っても、集中して想い描いて全身で丸をこしらえているのと同じことが生じている。
 この〈丸〉のジェスチャーに限らず、私たちが印(しるし)とかシンボルと思っているものは(厳密にいうと印とかシンボルは、それぞれ異なる働きのものだが)、いずれにせよ、私たち自身の活動のエネルギーや身心の働きや状態を変容する作用力をもっているからこそ、シンボルとされるのであろう。但し、元々はそうであっても、それが慣習化される過程で記号になったり、抽象化されてしまうと、元々の働きは失せるだろう。そのあたりは心理学、言語学などでも様々に分析、検討される問題ではあろう。

 私が、本書でいくつか提示しているボディ・ゲームの実験でも、似たニュアンスのことが問題になり得る。たとえば指先で〈丸〉をこしらえるとき、頑なな程に真剣に〈マンマル〉にするより、子供のように遊び心をもってした方が、このボディ・ゲームははっきりと結果が出やすいのである。集中するが、こわばった、あるいは無味乾燥な記号のように丸や円を扱うと、多分結果ははっきりとでないかもしれない。といってこれが単に気持ちの問題 ― 自己暗示に過ぎないというのも言い過ぎである。伝統的な武道の表現を借りるなら、カタチのカタは鋳型のカタであり、外面的なもの。そこにイノチのチ(見えないチカラのチ)が入って、はじめてカタは、いきたカタチになるというのである。



                            続く


今回も、動画はきわめて意味の大きな〈新発見〉と私は思っている「うず玉―太極球、円球」の技法です。(身体養成、武道、身心開発、瞑想等に活かす。)



Kiryuho uzutama group 140315

*1:禅僧の描く円相