坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

〈やわら〉を入れるー共感の力へ《9》

これまでの連載を少し顧って

 私が何年も「文武」に取り組んできて、遂に行きついた、ある非常に意味のあると思われる発見を記してゆきたい。この連載を始めた当初は思いもつかなかったある〈発見〉……。
 その内容にもかかわってくるため、元々の連載「〈やわらを入れる〉 ― 共感の力へ」のリズムに戻って進行するにあたって、これまでの内容をざっと顧ってみたい。

 私の高校時代の友人の祖父にあたる柔術の達人のまるで時代劇の一場面のようなエピソードに始まり、そうした柔術や剣術が、実は医術や瞑想にも比すべき、深みと味のある内容と思想を含んでいることを述べた。その際、弓道のことも述べた(連載《1》)。
 その弓道に通じていた演出家・思想家の故竹内敏晴氏が関心をもっていて、私も、大学時代からずっとその「言語の回復」について関心をもち続けてきた〈三重苦〉のヘレン・ケラーの、あの言葉の回復のあまりに有名な、井戸水のエピソードについて触れた(連載《2》《3》)。これはそのエピソードの前後のことがもっと大切で、それは人と人との出会いと〈愛〉ということの可能性を身体で示していることだった。もちろん、ヘレン・ケラーの先生のサリヴァンと、ヘレン・ケラーの間の〈愛〉が、後に映画や劇で著名にもなった「奇蹟」とも思われることを成し遂げたのである。
 (これについては、昨年、11月20日の青山でのイヴェントでも私が講演したので、その動画もご覧下さい(本連載2012年1月15、16日分)。著作権の都合上、ブログでは、当日引用した、主演と助演の二つのアカデミー女優賞を得た名作映画は写真でしかお見せできないが、記録用に作成したDVDもあるので、お見せできる場合があります。)
 さて、このようなヘレン・ケラーの言葉の回復に作用した〈愛〉は、武道や合気道の〈愛〉とつながる、というのが私の考えだった(連載《2》)。これは、とても逆説的と思われることだが。
 そして、言葉の働きのことでは、レスリングのオリンピック・チャンピオンで圧倒的な強さを見せたロシアのカレリンと〈言葉〉の関わりにも触れている。(連載《3》)。
 合気道と、私の展開していた身体技法に触れて、バッハの旋律に目覚めたピアニスト。
 そのバッハに関連して、ダ・ヴィンチの絵やロダンの作品に見られる人体や自然の螺旋構造に触れ、その螺旋や曲線が、武道の技や極意に欠かせない部分があることにも触れている(連載《6》《7》)。
 植芝翁が、道場で教えながらヒョイと口にしていた数々の言葉を私は貴重なヒントとして覚えている。ある時、「合気は微分積分だよ」と言ったことがある。ライプニッツニュートンがほぼ同時期に、微分積分のことを発想したが、微積分は動きや変化を読み解く数学でもあり、二人の生きた時代の潮流と密接に関わりがある、と感じられるのだが、自在な変化を旨とする達人の植芝翁の、この意外な言は実に示唆的ではないかと思う。
 どのように相手に応じて自らよりよく変化していくか、あるいは、どのように自らを変えずに相手の変化を誘い、見極めるか、等々たくさんの組み合わせでとらえてゆける、対他の姿勢。つまり、それは出会いの身体アートとしての武術である、といえよう。この出会いを、たとえばユダヤの思想家ブーバーの〈我と汝〉の根源語でとらえることも提示してみた。これはすべてではないにしても、あまり外れてはいない、と思う(連載《8》)。
 クラシック音楽の指揮者、小澤征爾氏の、指揮棒を振るそのリズム、タイミング、楽団員へのそれらの伝え方にも触れ、〈出会い〉のこつをそこにも見た(連載《8》)。   
 そうしてみても、武道の技の中のエッセンスの多くは、身体の実践のための叡智として、実はジャンルをこえて、様々な芸術、出会い、行為、生活等々に共通していることも示してきた。
 私は、共通しているそれを30年前から〈身体の文法〉と称してきたのである。

 合気道の植芝翁が、やはり道場である時「合気道は常識よ」とふと、洩らした一言もヒントにして私は、道場を出て、いわゆる合気道や多の武道の技にとらわれずに、あらゆるジャンルの人々、文学者も含めて創造的に技や表現を深めている人々に出会って、様々な検討を加えようとしたのだった(連載《8》)。そうして出会った人々のことも、いつか触れていきたいと思っている。
 〈身体の文法〉、それは民族や、多分歴史や時代さえこえていると思われた。(註1)
 植芝翁が影響を深く受けた出口王仁三郎氏等が、日本で最も早く、世界共通語を目指すエスペラント語に注目して、その運動に係わった。私は〈身体の文法〉の発想によって、世界共通身体技法、そして、共通身体言語を目論んできた(連載《8》)。
 
 それは世界各国とか、老若男女とか、各民族共通等と、水平に拡散して共通の地盤を見出されるのと同様に、次のように垂直的な時間軸に沿って、発想してみることも必要になるのである。
 そうすることで、私は最近、大変大切なこれまで気付かなかったことに、驚嘆すべきことに行き当たったのである。(つづく)


平成二十四年四月二十九日

(註1)
〈身体の文法〉については別の機会に述べるつもりだが、とりあえずは2011年11月20日の青山のイベントのために作成したパンフレットが比較的分りやすいかとも思う。
 拙著『気の身体術』『メビウス身体気流法』でも触れている。


※続編はゴールデンウィーク中にアップロードします