坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

鼎談の参加者について

 参考までに、ここで谷川さん、覚さん、坪井、三人の談話者の関係を述べるので、もし興味があったら読んでください。

 もう、三十年近く前、精確には1984年、歌手で作曲家の木村弓さんが、彼女が師事している瞑想と健康法の原田という先生に勧められたと言って訪ねて来、稽古を始めた。当時は彼女の住んでいる所から二時間半もかけて、週一回か二回の定期稽古に通っていた。しかも当時は戸外で行なうことも多かった。何でもその先生から、七年間は坪井のもとで稽古を続けろ、と言われたらしい。
 ちなみに、私はその原田先生とは遂にお会いする機会がなかった。先生は私の著書の一つに載った私の写真を見て、何か感じることがあったらしいのである。
 けれど、その七年間が過ぎても、私たちと波長が合うところがあったのか、彼女はずっと今まで続けることになった。その間、それまで、体の故障で中断するか、はかばかしくいかなかった歌手としての活動も、少しずつするようになった。それは必ずしも∞気流法によるというより、その勧めてくれた原田先生の指導あって、彼女の「歌うことが生命(いのち)」という切実な気持ちが稔り出したのだと思われる。
 弓さんが来るようになって10年たった、1994年、作詞家の覚和歌子さんが、前に∞気流法に通っていた治療家に勧められて稽古に来るようになった。当時の覚さんは、沢田研二小泉今日子など、その方面にうとい私でも知っているような人たちに詞を提供してはいたが、ほとんど誰でもがすぐに思い出すようないわゆるヒット作には恵まれていなかった。同時に彼女は、とてもユニークな物語的な詩を書いて、時に朗読会も開いていた。私はその詩に強い感銘を受けて何人かの人に紹介したりしたこともあった。
 そうこうする中に、木村弓さんがアニメの監督の宮崎駿氏に自らの歌声のテープを送ったところ、宮崎氏はその声に感嘆したことと、次に計画中の長編の粗筋を手紙に書いて送ってきた。
 それは、『煙突描きのリン』というタイトルで、大地震で大都市が一面廃墟と化した後、残された高い煙突に少女が登って、遥かに海を望むというシーンで終わる、というものだった。
 こうしたやりとりの頃、木村弓さんはジブリから特別注文を受けた訳ではなかったが、自分である曲を作ったのだった。そしてある日、∞気流法の稽古の帰りに覚和歌子さんに「モス・バーガー」でその曲のことを打ち明けた。覚さんは、「弓さんがハミングしてくれたその曲は、もしかすると、弓さんの耳の中に鳴り続けるメロディは、この物語のために生まれたがっているのかも知れない。」(覚さんのエッセイ『青天白日』より)と感じ、そのメロディに歌詞を付けて、「依頼されてもいない次作のための「主題歌」を、私たちは創ってみることにしました。」(同前)私の記憶では、その曲の冒頭の「呼んでいる どこか 胸の奥で いつも 心躍る夢を見たい」というフレーズだけは元々弓さん自身が胸に浮かんだフレーズだったかと思う。
 さて、こうしてできた「主題歌」だが、間もなく宮崎氏から企画自体がなくなった、という手紙が来た。けれど弓さん自身はこの歌が気に入っていて、ライブで度々歌っていた。
 そして二年後にジブリから要請が来て『千と千尋の神隠し』の主題歌となった…。
 木村弓、覚和歌子の大ブレークとなったのだった。そして二人の活躍振りは、∞気流法の稽古の人たちや私たちにもそのしぶきや余波をかけて、活性のもとにもなってくれた。特に弓さんは長く体調に苦しんで活躍もままならなかったことを、私たちはよく知ってきたので、率直に嬉しかった。彼女の歌声が、テレビ、ラジオはもちろんコンビニの店舗にも、温泉の休憩室にも、タイの街角にも流れている。そして覚さんの歌詞の中の「生きている不思議 死んでゆく不思議」というフレーズは、こんなに平凡そうな言葉なのに、こんなに「強く」人の心をとらえる、それこそ言葉の不思議である。その頃の少し後、歌手の加藤登紀子さんの夫の藤本氏が若くして亡くなった後、その遺された日記に、このフレーズが書かれていたことが新聞に紹介されていた。死の間際に書いたとき、彼は特に『千と千尋…』の詞とは思わなかったかも知れない…その新聞にもそのことは触れていない。しかし、このように何処の誰が作ったとも分らぬのに人の心に沁み込むような言葉こそ、ある意味では最も望ましい、究極、理想の作品だろう、と私は思った。

 こうして二人が大ブレークを始めたある時、木村弓さんは詩人の谷川俊太郎氏と子息の音楽家谷川賢作氏のパフォーマンスに共演することになった。覚さんは、それを知った。というのは、主催者が弓さんに連絡しようと、まず覚さんに連絡してきたからだという。覚さんはすぐに主催者に談判して、ノーギャラでも、と、その催しに出演を交渉した。彼女は中学生の時から谷川さんを(もの狂わしい程)敬愛していた。といって―彼女の言葉を思い出すと―ファンとして会ってそれで終りではまったく気が済まない…(このあたりの精確な女流詩人の気持ちは、彼女の著『青天白日』等を読んでください。)
 もちろんその金沢でのパフォーマンスは覚さんの朗読もいれて盛況裡に行なわれた。けれど私が驚嘆したのは、出会い頭(前の夜に初対面)の二人の詩人が公演当日に、谷川氏は『みみをすます』という詩、覚さんは『世界は音』という詩でコラボレーションの朗読を行なって、私に言わせれば、ものすごくうまくいったことである。
 谷川さんはいわずもがなとしても、この時の覚さんの覚悟と気合いは鮮やかという他ない。そこで私は『ことばとからだの想像力』でも、このお二人に、同じ詩の朗読コラボレーションを依頼したのだった。
この詩朗読と弓さんの歌については、∞気流法のホームページを参照してください。

 この時に弓さん、覚さん、谷川氏の三人の縁ができ、谷川氏も∞気流法の稽古に来られるようになったのである。(当初は毎週くらい通っておられたが、今では年に数回、少人数のグループの稽古に出られているくらいだが。)



《余談》
 木村弓さんがある時、曲をもって来て、詞をつけてくれということだった。わたしはまったくそのような作詞をしたことはなかったが、ある時、石坂啓という女流漫画家がアイヌについての長編漫画を描いていて、そこに「銀のしずく ふるふるまわりに 銀のしずく ふるふるまわりに…」というフレーズが出てきた。これだ! と私は直観した。銀色の雨が果てしない天空から果てしもなく降ってきている…その果てしないリズム…と、いつかそれが金色になっている。降り続けている。……その「移り」の「間(マ)」こそ、身体技法や呼吸や舞や武道の動作で、私が求めていたものと通じるものであった。後にこれは有名なアイヌの神謡で知里幸恵さんの訳と知ったが、このフレーズが、楽曲『銀のしずく』の中心で、私の作詞といっても、殆どちょっと装飾したにすぎない。けれど「銀の鈴のよう」と言われる木村弓さんの声にはとてもふさわしい、と今でも強く思っている。
 そこで、この『銀のしずく』を今回のパフォーマンスのところで歌ってもらったのである。
 
 谷川俊太郎さん、覚和歌子さん、坪井、そして木村弓さんとは、上記のようにして縁ができてきた。

                           平成二十四年二月十二日