坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』【 円相が呼吸する 】の章 ‐ 〈3〉

 武術の極意に活きる円相

 太極拳では図版で技の手順を示す際に、技を示している人体の周囲に円を描いて囲んでいることがある。
 そうすることで型やその変化や全体のバランスをよりよくとらえられる。左右、前後、上下など、より的確にとらえられやすくなる。有名なダ・ヴィンチの人体図の円も、同じ効果をもっている。



 次の図は、フランスの講習でいつも見事な通訳を勤めてくれるララ・サラバッシュ氏の母親が翻訳を生業としていたとき、著名なアメリカのフェンシングのマスターのテキストを訳したその中にあったもので、実際の試合でもこうして円の中に相手をとらえることが役に立つのである。



 日本の古武術の流派も円相を極意の中にとり入れたものが少なくない。円相の中に我身を置くこと、あるいは相手(敵対する者)を円相で囲むように想定してゆく。あるいは構えた剣で円を描く(これは小説だが『眠狂四郎』に「円月殺法」としてとり入れられたりしている)。他に思い浮かぶのが勝海舟の従兄で真の名人と謳われた男谷精一郎が継いで、今でも行なわれ続けている直心影流の型〈法定〉の奥義や、古武道とはいえないが、植芝盛平翁の合気道などもある。これらはある程度技の修練を積めば、〈円〉が単なる観念的な理想の形でなく、たしかに有効性をもっていることが納得できるのである。その際一つには円 ― 輪が実は和 ― 対立を越えた融合 ― の作用をすることが納得できる筈なのである。輪は和なりは、そうしてはじめて空疎な言葉遊びのような観念的な美徳の枠を抜け出てある種の実効性を有することができる筈なのである。
 宮本武蔵から起った剣術の流派には、「二天一流」が有名だが、もう一つ、それより若い時を源とする「円明流」というのも現存している。この流名は仏教の発想から来たのかもしれないが、もしかしたら私が述べてきたようなそれなりの〈円〉の働きが技や工夫に影響しているのかもしれない。武術の流派名や技の名はその実質と何らか深く呼応していることが多いのである。

 現代絵画の作家で野田弘志という人がいる。リアリズム絵画ということだが、実に緻密に厳密に対象(人物や化石など)を描き出す。単に細密に描き出すのでなく、対象の〈現実〉を、野田氏の観方で一般の人が現実を見るよりも遥か深く、遠く迄とらえる画である。この人が描写の訓練として教える一つが、掌大の直径の正円をコンパスを使用せず線描することである。完璧なものを求める気持ちで描け、それが他の幾つかの訓練と並んでデッサンの基本になる、と説く。
 このようにものの現実 ― リアリティを描き出す時の基本としての円と通じると思われることが、実は、西欧哲学の祖の一人アリストテレスのエピソードにもあると私は想像している。彼は臨終の際に「私の円はどこへ行った!」と言った、と伝えられている。ならば彼にとっては円が万象を観察し、思考する際の基本になっていた?と想像したくなる挿話である。
 野田画伯のことを私に話してくれた詩人谷川俊太郎氏は、新聞の毎月の氏の詩のコラムに、だんだんとココロの色合いが褪せて、かすれてきた、ココロはカラダと一緒に、モノクロ写真になった…と言い(ここまでは坪井が要約した)、次に反転、次のような句が続いてこの詩は終る。
  いっそもう一度
  まっさらにしてみたい
  白いココロに墨痕淋漓
  でっかい丸を描いてみたい
          『心の名』2010年5月朝日新聞より
 そう、円は新たにそこから何かが生成され、発してくる〈ゼロ〉の場でもある。
 さて、円を描く際、幾何学や数学ではもちろんコンパスを用いた。今ではパソコン。
 けれど、人が禅僧のように白い紙に墨痕淋漓と描いたり空中に想い描くときには、円を描くに従って自ずと中心が想定され、計られてゆく。コンパスの機械的な中心でなく、ぐるっと描くその身心の活動の過程で〈中心〉の見当をつけてゆくのである。 
 それには自らの身心の釣合いが絶妙にとられなければならない。円周が描き出されてくるプロセスでその釣合いの中心が問われる。
 だからこそ、禅僧は解脱(サトリ)の境地を〈円〉に託したくなったのだろう。このような円は、可能性に満ち満ちているのだ。


                             続く