坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』【 円相が呼吸する 】の章 ‐ 〈4〉

 オノ・ヨーコ、円の発想で危機を乗りこえる

 小野洋子オノ・ヨーコ)は、殺されたジョン・レノンのメモリアルプレースとして写真のようなモニュメントを作っている。ニューヨークのセントラルパークの一角の地面に円い形が設えられ、中に〈IMAGINE〉と記してあるだけ(写真 下)。彼を偲びに来た人はその傍に立っている ― この円形 ― 何気ないようで、とても印象的なモニュメントだ。


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 実は、オノ・ヨーコ氏と円は強い関わりがある。
 夫が目の前で射殺されたそのとき、弾丸がすぐ傍を通るのを感じて、死の恐怖に慄いたが、彼女が苦しんだのは、むしろその後だった。関係者の何人かが、ジョンの死は彼女のせいだとして糾弾したのだった。それが何日も続いて彼女は精神的に参って、自死も考えたという。そういう時、誰に教わったのかは私の知る限り記していないようだが、彼女は毎日(多分ベッドに就く前)、そういう何人かの糾弾者に対して「祝福」の念を送ることにしたという。彼らを好きになったり愛することは難しかったけれど、ともかく祝福の念は送った。もちろん、目の前にいるわけでない。彼らの存在を想うのである。そして、その想念上の彼らを想い描いた〈円〉で囲んだ、というのである。ここに私が言ってきた〈円〉のフォーカスの作用力がどのように働いたのだろうか。毎日続けていると、比較的に短期間の中に、彼らの態度が変化して、敵意の矢を彼女に放たなくなったり、彼ら自身の境遇が変わったりして、糾弾がなくなった、というのである。これは私の記憶ではたしか日本の代表的な月刊誌の一つに載っていたエピソードだと思うのだが、どうも彼女自身の筆でなく、誰かが書いたものらしく、探したが今、出典を明らかに記せない。
 オノ・ヨーコ氏は禅の思想にも興味をもったりしていたので、円相はそこでヒントを得たのかもしれない。むしろ彼女の芸術活動に見られるセンスがそうさせたのだろうか。ともあれ、円相のメモリアルプレースは彼女のそうした体験と無縁でないと思われるのである。
 私はこれについて読んだとき、直ちに私の行なっている武術〈やわらげの武〉に応用できると思って、円相の実験をしてみた。すると、円相を描くのみで、これまでやってきた技も新しい工夫の技も、びっくりするくらい楽にかかるのだった。
 そうして私は、先に述べたような昔から伝わる武術の極意にある〈円〉に触れた感じがしたのだった。ずっと以前に私が稽古していた合気道の師匠山口清吾先生は、植芝翁からあるとき〈円〉のことを伝えられたと私に話してくれた。それは、剣で、ぐるぐると空間に円を描くだけの動作で、「これだけやってれば五段をやる」と、師匠は入門してそれ程たっていない若い時に植芝翁から言われたのだった。私は何となく、そうかな、と思っていたのが、オノ・ヨーコの円相の活用によって思い起こされた。そのままではないが、それもヒントの一部として、道場で活用し、様々な、円相の応用を確認し、発見し、技を深化させることもできたのだった。そうしてみるとこれは、健康法や集中法にも役立つことがわかってきた。
 そして、私がオノ・ヨーコや円相のことを講習会で話すのを聞いたある女性は、仕事上の関係者との間で、人間関係がうまくゆかず苦境に陥りそうになった際にその原理を応用して、問題が解決した、と報らせてくれたこともあった。
 これらは、外面的には身体的な活動が目に見える応用ではない。しかし、〈心〉のことも〈からだ〉のことも密につながっているのである。宮沢賢治は詩『月天子』の中で言う ―人は心といっても充分でない、人はからだというのもあたっていない、といって人はからだと心の合わさったもの、というのも違っている ― …いずれも的確に人間の存在を言い表わし切らない …。私にとっては、今のところは、円相の働きは、このような人間の存在に働きかけるのだろう、と言う他ない。


 村上春樹、ダンテ、禅、フェンシング、古武術オノ・ヨーコ合気道、セラピー等々と様々な場での〈円〉の活作用に触れてきた。
 実は人類学上の研究で、〈未開〉とされてきた世界の民族、部族の風習や儀礼などで〈円〉は多く観察されているらしい。ここではその中でも私が最も印象的と思ったものを一つだけ挙げる。
 「内に光を宿して見るシャマンのまなざしは『大地のすべてが目の前の円の中に集められた』とするように、もはや常人のする肉眼視を超えており…」これは人類学者の研究論文に出てくるイヌイットエスキモー)のある部族のシャマンの世界のとらえ方、見方についての記述である。(岡千曲著論文『アピ鳥のまなざし』)
 詳細は略するが、これと空海や禅や、ここまで挙げた現代人の〈円〉とはまったく関わりのないこととは思えない、と私は体験的に実感的に思うのである。円相は、現代人にも、ある種の〈VISION ― 洞察力、観法あるいは世界を洞察する視力、知力〉を可能にするところがあるのだともいえるだろう。それはそもそも、〈人間〉というものに沿っている筈の構図であり可能性なのだ。
 円相は想像力や思考さえ純化し深くしてゆく働きをするとさえ思われる。もちろん、その際〈からだ〉やその働きもかかわらせつつ…。
 最後に誰にでもでき、遊べる、リラックスと安らぎのための円相の活かし方そしてやや特別な活用法も紹介してこの章を終えよう。


〈ボディ・テスト・ゲーム〉 短距離走での円相の応用
 これは体力のある、急激に動いてもさしさわりのない人向けの実験ゲームである。
①100メートル走のように腰を屈めてスタートラインにつく、あるいは立って少しだけ身を縮めて構えるのでもよい ― もちろん広いグランドや広場等で行なう。
②まず自らを円相で囲んでいるように想像する。

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③100メートル走なら100メートル先(あるいは20~30メートルでも50メートル走でもよい)、そのゴールラインで自ら走り込むあたりに大きな(想い描くのが無理のない範囲で巨大な円相がよい)円相を描いてみる。一度描けたら、スタートの時はそこから視線を外してもよい。

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④スタートしたらその目の前遥か先の円相の中心に跳び込むつもりで走り込む。
 円相は私を抱きとるものである(というように想い描くことができる)。
 この実験ゲームは前以て円相なしのケースのタイムを計っておいてどのくらい実際に速くなるかを調べるとよい。

 円相を描いて対象との一致融合、距離を縮める方法は様々なことに活用できる。
 ピアニストは、弾こうとするピアノの鍵盤に対して、あるいはピアノ一台そのものに対して、あるいはコンサート会場とその中の聴衆に対して。それもその現場に行ってからでも、行く前でも。自らの〈中心〉と〈対象〉になる物事の〈核心〉が一つに結ばれることが肝要である。そのため円相が活かせる(速読術というのは、私はあまり興味がないが、やはり読もうとする頁に〈円相〉を応用している方法があると聞く)。


 さて、この章は円についてである。つまりは二次元的なかたちである。…その次に三次元的なかたち ― 球、あるいは玉がある。
 この玉が、円を遥かにしのぐ働きをすることを提示しなければならない。
 「玉」あるいは「円球」も古代から様々な民族や場面で用いられてきたにせよ、実は極めて現代、未来的な存在なのである。この「玉」を用いてこそ、私たちは自己の存在に目覚めることができる、というのが最近の私の実践を通しての発見である。単に知的な意味( I see. 私は見る=分かるの世界)でなく、もっと全体的に世界をとらえ、身心の可能性を拓いてゆく「玉」! これこそ古代、中世そしてごく近い近代まで私たちが充分には気付かなかったことである!

 この章で述べてきた円相のさらにその奥に「玉」の働きと意味がある。それは本書の最終章か別枠で述べるつもりだ。



【 円相が呼吸する 】の章・完
やわらを入れる(第二部) 『もうひとつのからだへ』(新著予定タイトル)の続章へ続く



 「玉」の身体技法、およびそのとらえ方については、改めて紹介してゆきます。

*1:『imagine』by Yoko Ono.

*2:イラストレーション:竹内啓

*3:イラストレーション:竹内啓