坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

「コロナと人間の知」(2)

知の楽しい冒険と戦慄すべき例と

  将棋の藤井聡太七段は、僅か十七歳で最強とされる先輩棋士を破ったが、その際の一手は四億通りの手をすぐに解読してしまうA Iでさえ、その手の妙手であることを見抜けなかった、といいます。私も含め何とも言えぬ愉快と魅力を少年棋士の驚くべき才能に感じました。これは、私たちが自ら参加したり理解できなくても、勝負の行方を楽しめるゲーム上のことではあります。けれど、仮に同程度の能力が同じような若い人によって、仮に軍事や政治や経済活動などに発揮されたら、人々はどんな反応を示し、その大天才はどんな運命を辿るでしょうか。 

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タイトル獲得後、18歳になった藤井聡太棋聖の笑顔(東京新聞2020/07/22掲載)

 

 二十世紀初頭、ドイツである優秀な化学者が窒素の肥料を工夫し、それで農業に世界的な革命が起こって、世界の人口も増加するきっかけになりました。彼はノーベル賞も授かりました。やがて第一次世界大戦となり、彼はその研究を兵器ーー毒ガスーーを作ることに応用し、世界で初めてのスケールで大量殺戮を可能にしました。彼にすればドイツ国民として、これによって自国を勝利させ、早く戦争を終わらせたかったと告白しています。けれどそのことを知った科学者でもあった彼の妻は自死を遂げます。そして次の悲劇が待っていました。やがて彼の研究は、アウシュヴィッツ等のユダヤ人収容所であのおぞましい大量殺戮に利用されたのです。彼自身がユダヤ人だったのです(彼は亡命した)。

 このように、特に科学技術を可能にする知能、知力は、一体どこで、どのように制御され得るのだろうか。藤井少年の、ゲームの中だが怖るべき「知力」に思わず快哉を叫ぶ私たちは、大体に於いて知の冒険の飛翔を讃えて止まない。そこには「無害」な文化や遊びの中に止まるものではなく、何か無条件に抗いがたく「力」を讃美してしまう、それを気づかない危うい傾向もあるのではないでしょうか。

 ゲームとは異なって実際に世界に働きかけ世界や人類の生き方までを変容してしまう利用を可能にする「知」を一体、どのように制御できるものなのでしょうか。それともそれは殆ど不可能なことなのか。

 現代のコロナの暗雲は、元を辿ると、人間に与えられた知力が引き出したものかもしれないとされます。何百万年か何十万年か人間と関わりなく自然の奥底にいたウィルスやそれが住みつく動物などを暴き出し、遂にウィルスと人体との関係を結ばせた。

 人間の業(カルマ)としての「知」をもう一度捉え直すことや「知」を制御すること、それを「中庸」の状態に保定したままその力を発揮することが可能なのでしょうか。

 簡単に答えが出るわけもないでしょう。

 

宮本武蔵は自由を「やわらか」と訓む

 

 ここで述べるのは、私の随意な発想で、何か参考にしてもらえるか、というものに過ぎませんが…。

 私はずっと様々な身体技法や武術(剣術や柔、合気道)を研究し、少しずつ実践してきました。そこに幽かにヒントになるものがあるのではと思われるのです。

(但し、私の武術についての観方の重心は一般にイメージされるのとは相当懸け離れているかと思われます。これについては、拙著などを参照していただければと思います)。

 さて、武道では、剣術や柔術にかかわらず、筋肉や筋骨で実感される力(チカラ)は、少なくとも全面的に依り頼むものではない、とされます。

 強い力よりもしなやかで柔らかい動きからくる技の働きが大切だ、という。これを「やわらか」な働きという。もちろん、一定の筋道や段階を踏んで身につけてゆきます。柔術も「やわら」と呼ばれ「和」とも書いたりすることがあります。もし仮につよい力が必要とされる際はつよいを「勁い」と書き表すような「ちから」でしょう。強いは、強(コワバ)るとも訓むので、本来はそこに「自由」さが欠けがちです。「勁」にはしなやかを含むニュアンスがあります。

 宮本武蔵の畢生の極意書『五輪書』には、剣の術をよく鍛錬すれば「自由」な動きができるとあります。その「自由」に「やわらか」とルビが振ってあります(岩波文庫による初版)。

                f:id:tsuboikajo:20200727173824j:plain武蔵   

    f:id:tsuboikajo:20200727173943p:plain五輪書

                    

 もう一つ伝統的な智慧があります。

 海童道(ワダツミドウ)という尺八や尺八をずっと大きく太くした竹製の楽器の奏法の一派があります。これを創始した海童道祖は驚くべき名人で、今、簡単にインターネットでも聴くことができます。なかでもその『霊慕』という曲の演奏は絶唱で独自の虚空へと誘ってくれます。聴いていると名状し難い深さと自由さが現出してきます。 

 以前、私は呼吸の研究に集中して本を書いていた時、海童道祖の、演奏のための呼吸の段階を分かりやすく述べているのを知りました。

 まず、初心者の微弱な息や、強く出そうとする勢いの目立つ荒い息は、共に楽器を鳴らすレベルのものではなくものの役に立ちません。そこを練習してゆくとやがて強い息になる。けれど、強いということはある程度のレベルは必要で、また役にも立つが、抱擁性には欠けている。そして自由が欠けている。そこを抜けると「やわらか」な息になって、はじめてよき演奏ができる。そう道祖は述べた。これは実に武術に似ている実践的な発想といえるでしょう。

f:id:tsuboikajo:20200727182334p:plain海童道祖 


 

 私は、人間の「知」についても似たことが言えないか、と思うのです。「知」あるいは「知力」を「自由(やわらか)」にするには?

 ずばり、その解答をもたらす可能性があるのは「瞑想」ではないでしょうか。瞑想といってもいわゆる既成概念のそればかりでない。それらは伝統的ではあるし、権威の安心感を与えることがあるが、反ってそれが何かを疎外してしまうこともある。

静かな、動きを抑えたり止めたりするいわゆる瞑想だけでもなく、活動的な瞑想もある。人間の本質的、あるいは真の常識的な営みとしての諸々の瞑想があり得ると思います。

 その「瞑想」が熟す中に、人は存在(イノチ)の微妙で深い「釣合い」を感得してゆく。すると、知力が自由(やわらか)になってゆき、それでこそ、人間は自然と豊かに永続して結ばれてゆくのではないでしょうか。

 

「瞑想」と知性

 

 私は三十歳代の前半、五年間くらい小さなグループで坐禅と仏教、東洋思想の講座に参加していたことがありました。その参加者には法学者、宗教学者、医学者等の若手がほとんどで、編集者もいました。坐禅の後、ちょっとした座談会をしました。すると、彼らはよく先生からアドヴァイスをされていました。そのアドヴァイスの骨子の多くは、彼ら学究者の語ることが、頭脳から出た内容だ、ということでした。それでは不足だと先生(玉城康四郎先生)は言う。では本来の「見性」をするとはどういうことか。「全人格的思惟」こそが真の実りをもたらし得る、と。これが玉城先生の指南でした。玉城先生の全人格的思惟は、必ずしも瞑想とか宗教的な世界のことに限られる筈もないでしょう。このことも含んで、私の瞑想、武術、身体技法の体験も加えて少しずつ触れたい。