坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

肉体と芸術創造  芸術におけるもう一つの視点(前編)

ブログ再開にあたって                  
 しばらく休載してしまったブログを続けます。 
 なぜ休載してしまったかというと、私自身の稽古(身体技法・∞気流法と武術の稽古)に、大きな、予想を超えたような変革が生じたからではないか、と自分では感じています。
 それは私の術のレベルが変化を遂げた、というだけでなく、身体観、生命観の変革でもありました。(例によって実感、実践を通しても)。
 そのことについては追い追い書いて行きますが、その変革が、身を通して実現するためには、おそらく、思いの外、凄いエネルギーが必要なのかもしれません。器用に日々のルーティンにきっちり対応するのに必要なエネルギーも、そちらに行きがちになってしまうのか、などと考えることもあります。もちろん、これは一種の弁解にしか聞こえないこともあるのを承知ですが…。
 再開にあたって、私の「身体の文法」の発想の元になったエッセイを載せます。

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 次の文は、1970年代に、身体の動きと精神のかかわりを研究しつつ、それを芸術家の創造に焦点をあてて書いたものである。(坪井繁幸は私の本名です。)『芸術生活』(1974年10月号 芸術生活社刊)に載ったが、同じ号に著者として、針生一郎美術評論家)や柴田翔芥川賞作家)の名も見える。
 当時の私の目指す方向は、一方で、人間の身心の可能性を存分に発揮した者達のことであり、そしてその反対に障害者や病人や、行き詰まった状態にある場合、その状態をどう受けとり乗り越えるか、という対極的なものだった。
 日々の稽古場で、目の前に実際に、ほとんど「神話的」と思えるほどの達人の技を前にし、同時に自分は、どうにもならないくらい下手で、身動きもままならない…。そういうことが投影されてもいる。
 少しばかり勢いにまかせ過ぎて粗い箇所や、見定めの甘いところがあるが、ほとんど修正しないで載せることにした(前・後編に分割)。
 このままエッセイとして受けとっていただいてもよい。同時に、今読み返してみても、私が展開している身体技法の元になった「身体の文法」の発想の淵源を感じることができるものだと思う。(坪井)
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肉体と芸術創造  芸術におけるもう一つの視点(前編) 坪井繁幸(現・香譲)

 この文中、頻繁に用いられる〈肉体〉あるいは〈身体〉という語は、ときにその意味が一貫していないと思われるかもしれない。肉の塊りとしての肉体が、いつの間にか精神の現象そのもののようになったり、その逆だったりする。それは私の表現力の不足もあるにせよ、同時に人間の肉体そのものが、それ程に深奥で、変幻性をもつ故だと解していただきたい。


黄金の重み
 チェロの巨匠パブロ・カザルスは八十歳近くになってもバッハの組曲のような至難な曲を見事に演奏できた。彼は、その秘訣をたずねられ、クーエという有名な催眠治療師から、筋肉をゆるめる方法のヒントを得、腕と指のしなやかさ養ってきたからだ、と答えている。(コレドール『カザルスとの対話』佐藤良雄訳)
 ただし、そうような柔軟さは、腕や指など肉体の一部に関するのみではない。体をうまく弛緩することで、彼の表現にしたがうと〈身体の中心〉から、なめらかな、全体の統一がとれた動力が出るようになる。この〈身体の中心〉とは、自分の感じた印象をイメージとして言うので、これを判定し明記するのは容易ではない、とカザルスは語っている。

 たしかにそれは単に外面的な、計測できるような身体の一点ではないだろう。だが、身体を動かして技や芸の極限を探ろうとする者には、たしかに自覚される一点である。その意味では単なるカザルス一個人の主観上の存在ではない。
 モダンダンスでは、ダンサーの基礎訓練の最大条件として、〈自分のセンターを知る〉ことを挙げる。モダンダンスの特徴であるオフ・バランスの面白さ、美しさが出るには、どんな一見不安定なポーズや動きのなかでも自分の〈センター〉が体感、自覚されていなければならないと言う。
 ここに挙げた二つの〈中心(センター)〉の例は、いずれも身体の運動のなかでの自覚であり、おそらく日本の伝統的技芸、たとえば音曲、舞踊、武術等でいう「腹」とか「腰」に近い体感的真実といえるだろう。
 これが、次のカザルスの告白になると、問題は、遙かに深みに導き入れられていく。
 ある時、哲学者ベルグソンから、よい音楽を演奏するときはどんな感じで弾くのかをたずねられてカザルスは、演奏が満足できると「心の底に、特殊の性格をもった──いわば〈黄金の重み〉とでもいうか──そういったある種の重みを感ずる」と答える。
 ベルグソンが、それは何か善行をした際に懐(いだ)く感じに似ているのかとたずねたのに対し、善行には何か自意識のようなものが残るが、それにひきかえ「芸術的創造の重みというものは、それ自体われわれの身内の一部となるように思え、あたかもわれわれが創造に加わるということが一歩おし進んだ、より決定的なもののようです‥‥」(前掲書、太字部分坪井によるマーキング)と答える。
 彼がさらに、それは単に内面的な静かさや清澄さということではなく「非常になま身に伝わってくる性質の感覚であるからこそ〈黄金の重み〉というイメージを用いたのだ」と強調しているのを見れば、これは文字通り身体的な実感でもあったことが明らかである。黄金のきらめくような三昧の感覚。だが同時にそれは決してうわつかずおぼれず、ずっしりと重心をもって充実しつつなされる玄妙な創造の流れ。
 こうしていかにも身体的と思えたあの〈中心〉と、この重みとは一致符合するようだ。肉体上の〈中心〉を通して果たされる演奏はカザルスの言にもかかわらず精神的なきわめて主観的とも思える〈黄金の重み〉を醸し出す。逆に〈重み〉は〈身体の中心〉から手の指、楽器へと伝わって具現されてゆく、〈黄金の演奏〉となって。

              

文学と肉体
 このようなきわめて微妙なことのようだが、一定の秩序をもつ肉体と精神の呼応は、ときに人間の存在そのものと表現という本質的な問題を露呈するが、他の芸術の創造過程ではどのように受けとられているだろうか。この場合精神よりもむしろ肉体が問題だ。なぜなら、他のジャンルにも増して、芸術においては精神が奇妙に過信され、その分肉体が顧みられていないからである。
 肉体そのものが表現体である舞踊、体の働きに〈言葉〉あるいは文学が重なることで、肉体活動の純粋性の点ではそれに一歩を譲ると一般に信じられやすい演劇、音楽の演奏‥‥ここまでは、体の動きそのものが見せ場である。建築などでは、頭脳と手が完全に分業化してしまったかと思われる(実はそうではない)。造型美術はまだその肉体の働きが分かるにせよ、最も抽象的な言葉を表現体として密室作業の最たる芸術といえる文学はどうか。少なくとも書かれている最中の肉体活動の占める割合はごく少ないと思われよう。しかし創造の現場にはかならず人間の肉体が息づいてそれなりのドラマが展開している。
 かつて私は、寝そべりながら漫然と読書するうち、文章の一部が杭のように突き刺さって、思わず知らず起き上がって居ずまいを正して読みつづけたが、それは自分ながらおかしいことだと後で思った。これは我々の思いは、原則として必ず肉体と何らかの筋道で照応していることのほんの一例にすぎない。
 瞑想や呼吸や姿勢を重んじた東洋の思想はいわずもがな、西洋思想の歴史でもソクラテスプラトンアリストテレス等のギリシャ人は当然として、アウグスチヌスやトーマス・アクィナスも、身体と精神との相関関係を意識的無意識的に知り、前者は心の倦怠の解毒剤として肉体労働を奨めており、後者は、その著述に盛られた思想と彼が修道院僧として義務づけられていた厳しい勤行──それは極めて肉体的なものである──との関連は無視できないであろう。
 そのような伝統が決定的に変化したのは、私が他の著述(拙著『極意──精神と肉体のドラマ・武道』潮文社刊)でも触れたようにデカルト以降であったが、デカルト自身は身体と思考を分離することで思考の独立を打ち出そうとしたのだから、むしろ身体のもつ意義をよく知っていたと言えるだろう(同時代のモンテーニュパスカルも身体と精神の関連について深刻に考えている)。ほとんど純粋に書斎と読書から哲学が生じるようになったのはそれ以後であるが、これを打ち破ったのが〈肉体は一つの偉大な理性である〉と主張したニーチェを祖とする実存主義である。しかし、ツァラトゥストラの肉体に関する二つの章は以後超えられもせず発展もしていないようである。
 文学に戻ろう。作家に文体があると同じく書く時の身ぶりの個性や癖があってもおかしくないだろう。意外にそれがその作家の本質の一端を鋭く瞥見させることもある。
 作家の作業現場そのものについての記録はあまり興味をもたれないせいか少ないが、たとえば私がようやく見つけ出した欧米の作家にその創作過程をインタヴューした『作家の秘密』(宮本・辻・高松訳)一冊だけでも色々と連想を誘う。トルーマン・キャポーティはベッドかソファーに横になる〈水平型〉で、煙草とコーヒーを常に手のとどくところに置く。午後になるとコーヒーは薄荷入りの紅茶、シェリー酒、マティーニになってゆく。タイプライターは使わず、鉛筆を使う‥‥。
 ヘンリー・ミラーは、創作活動の大半は机から離れた散歩中とか床屋とかゲームをやっている時に頭の奥で行われているといいながらも、タイプライターの前にきちんと坐ってすごい速度でキーを打ち、時々引っかかると一頁に一時間を費やすが、それは稀で、泥沼に入ったと思うと面倒なところは飛ばして先へ進む‥‥と告白する。手を入れるときはペンとインクで行い、つぎにまたタイプを打ち直すが「思い通りに全部直したと思う時でも、キイに指で触れるというまったく機械的な仕事で思考がさえて、出き上がったものを打っているはずなのにいつの間にか直しているものだ‥‥」と語り、タイプライターと彼との間に一種の〈交流〉が生じるのだという。
 ヘンリー・ミラーに言わせると、作家や画家は仕事中自分を楽な状態におくよりも、楽でない姿勢で仕事をすべきだという。彼に聞くまでもなく、まず例外なく、肉体を通しての創造には何らかのかたちのストイシズムが、どこかで必要なのだ。ゲーテは書斎では固い木の椅子を愛用し、美食家バルザックは創作にとりかかると何日もパンとコーヒーの簡素な食事に切りかえるのが常であった。
『作家の秘密』ではヘミングウェーが最も象徴的にミラーの主張を実行している。彼はつっかけ靴をはき、胸の高さにある台に向かって立ったまま左腕をかけて、手で書くと語っているが、私にはこの姿勢が丁度、獲物に照準をつけて引金を引こうとする狩猟者の構えを思わせる。彼が好んでテーマとしたハンターや闘牛士はストイシズムと訓練の中に生きた。彼もこうしたストイックな緊張した身構えによって彼らのイメージがより明瞭に把えられたのだろう、とも思われる。
 三島由紀夫も、ボディビルや剣道をする以前は乗馬をやっていたが、このリズミックなスポーツの後ではあまりに快適な気分になり小説を書くのによくないと思ってやめた、と告白していたことがある(もっとも三島はこの考えを後には撤回したが)。
 文を創り出す現場の作家の肉体の背後にはもちろんそれ以前に彼らの経験、記憶がしみこんでいるにせよ、タイプに向かい原稿にうつ向く肉体の動きやポーズには、今迄見たように、彼らの世界へ向かう態度、思想──したがってその文体をどこか象徴的にあらわしている。文体とは世界や対象を言葉で把握する形でもあり作家の呼吸でもある。呼吸は当然その生理と密着している。
(後編に続く)