坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

やわらを入れる(第二部)『もうひとつのからだへ』【手のひらと指が世界に接する】の章—〈1〉

 手首で弟子と女友達をチェックする

 上半身を左右に大きく振りながらピアノの弾き語りをした盲目のソウル・ミュージックの巨人レイ・チャールズ(1930〜2004)は、多くのポップ・ミュージックの人気者のように、大活躍しながらも、個人的には様々な苦悩にさらされ続けていたらしい。けれど、というか、それ故にこそというべきか、なかなかの発展家でもあった。レイが、女友達を選んだ〈こつ〉を、彼の友人がTVのレイの特集で打ち明けているのを聞いて、私はびっくりした。
 女性と握手などして、手首の柔軟さをチェックして選んだ、というのである。

 私が驚いたのは、このエピソードで、インドのベンガル地方で〈大聖〉と呼ばれた瞑想の師、ラーマクリシュナ(1836〜86)も似たことを語ったのを読んだことを思い出したのである。
 彼の弟子にあたるヴィヴェカーナンダこそが、十九世紀末に欧米に渡航して、インド思想やヨガを伝え、多くの知識人を驚嘆させた。その後にヨガナンダなどが続いて、欧米でヨガを広布したのである。
 今日のヨガの隆盛も、元をたどれば、そのあたりに行きつくのである。

 ロマン・ロラン(1866〜1944)はベートーベンの伝記でも有名だが、ヴィヴェカーナンダやガンジーなどの伝記と共に、ラーマクリシュナの伝記も書いている。
 知識人としても評価されたヴィヴェカーナンダが心の底から尊敬していた、小学校も出ていない、字もろくに読めないラーマクリシュナの逸話は山程残っている。その中に、蝟集してくる弟子候補から選ぶのに、彼が、彼等の手首の柔軟性を、そこに触れてチェックしていた、というのが残されている。
 一見は、共通しているとは思われない二つの世界の巨匠の手首チェックが面白いではないか。

 人体は、いわば微妙、深遠な内容の書物であり、的確に読み解けば、そこに形而上学的な ― 平たくいえば、宇宙的ヴィジョンや詩的な ― 世界が、そして同時に時には〈俗〉にも通じるような具体的な身体的な、実践的な英知が潜むことが明らかになるのだ。

 ただ、書物と異なり、身体は時々刻々と変容する生(なま)もので、そこが難しいが。
 手首から先の手のひら(掌、たなごころ)、そして指。
 その役割はヒトが直立二足歩行を開始して、手の自由を確保し、ものを掴むなど生存のために使ったことがまず基本だろう。
 そうした実利上のことは、何と言っても目に見えてすぐに生存の利益、損失に直結するので、意識されやすい。
 けれど、必ずしも実利的な営みに直結していなくても、微妙なコミュニケーションに手のひらが大切な役割をしていることも見逃せない。


 あいさつ、合図。
 我国、古代では旅立つ人に別れを告げるときなどに、袖やの布切れを振った。これは、死者に別れを告げる儀式の際にも行なわれた。領布(ひれ)とは女性が肩に巻いた薄く長い布のことである。
 布を振り立て、空気を動かし、風を起こすところに、ある種の霊的な力を見、別れる者の安全を念じた。 
 その風習が、布のひれでなく手のひら(掌)そのものを振るのと通じているのだろう。
 手のひらを振るにはもっと理由がある。次のことを考えればよい。

 東西、二つの対照的な手招きがある。
 通常、私たち日本人は、人を呼び招くとき、手を前にかざし、手のひらを下にして、指先をくい、と曲げて合図する。それにつれて手首も曲げられる。
 よく知られているが、西欧では、この手振りだと、むしろ、来るな、あっちへ行け、という意味になる。
 西欧では、招く際には、手のひらを上にして、くいと指を自分の方に曲げる。
 招く動作が一見、真逆のようだ。
 けれどよく洞察すると、表面的には逆でも本当は〈同じ〉ことをしているのである。
 どちらも、指先の動きは自分の方へ、あるいは上と下の違いはあっても自分の手のひらの中心へと向けられているのである。ここは、ずばり、身の中心、腹、臍下丹田と呼応するところなのである。つまり、〈たなごころ〉は自らの存在感覚の中枢と直結している。

 ものごとが明々白々と把握されていることを
 「たなごころ(掌)を指すごとく」
 と言い、大切極まりないものを
 「掌中の玉」
 と言う。他に
 「私は彼の掌(手のひら)の中で踊らされている」
 など、こうした表現は、元々は相当に身体的な裏付けがある。

 このような身体を源にした言語や句の多くは、永く言語として通じて、慣習化してゆくにつれて、元々の身体的感覚の生(なま)な現場から遠ざかり離陸して、記号化し、抽象化されてゆく。それこそが言語の宿命だが、時には、実際に身体感覚を通してその淵源に還ってみると、意味が生々しく立ち現われ直してくることがある。そのようにして源を省みることで言語も表現もエネルギーをチャージできることがある。

 さて、手のひら側は、人体の前側、表にあたり、手の甲側は人体の後側、裏、背中側、というのは様々な身体技法、特に東洋的な身体技法で言われるところである。 
 実際に皮膚も、甲側から腕の外側へとつながって、背中側に入ってゆく。
 手のひら側、つまり、手の内側は、大体において皮膚が外側よりも白く柔らかい。腕の内側から脇へ入り、胸側、腹側へと連なる。
 たとえば合気道太極拳やヨガなどの身体技法で動いてみて、ある程度習熟すると、それがよく感得、納得できる。
 手のひらに限らず、およそ人体のあらゆる個所が、ある種の陰陽、裏表の秩序性、法則性をもって全身と関わり連なっている。
 逆に言うと、全身が、あらゆる個所個所に一定の法則をもって連なっている。
 つまり、そのようにして部分は全体を反映する、ということである。
 宇宙の一つ一つの細かい事象のなかに〈全宇宙〉が宿り、その一つ一つの事象は互いに編目のように反映し合って存在している、という、仏教の中の「華厳」の発想にも似ている。
 これは、一般に東洋医学の基本的なヴィジョンでもある。
 手指、手のひら、足の裏、腹部、背中、骨盤、頭部、耳たぶ、眼球…と、それぞれが〈宇宙〉であり、各々全身を映す鏡なので、その一つを専ら観察し、それに基づいて、そこに治療を施せば、全身のどこの障りだろうと治ってゆく…という発想は、東洋医学に根強いのである。
 当然、手のひらや手指を専らにする医療法もある。
 手のひらが、人体各部の中でも、特にコミュニケーションを司る場としてとらえられるのは、手が、最も私たちの意識を反映して動かせる場所だからだろう。それには理由がある。指や手のひらは、人が意識的に〈外〉と接してゆき、働きかけるとき、全身の末端部位として、最も活動するところだからである。
 哲学者カントも、「手は外部の脳である」と語ったという。この場合の脳とは、当時の人体知識から見ても、もちろん、〈意識〉を司る主として我々の言う大脳皮質のことになるだろうが。
 握手、抱擁、ハイタッチ、片手を上げ手のひらを相手に向ける挨拶、これらすべて、掌心がさらされて相手に向けられていたり、互いに接し合ったりする。自らの中枢と相手とが触れ合い、結ばれ合うという身振りである。それは全身抱擁を手で代用していることになるといっても、それ程間違いでない。


 手のひらは、手指と共に、人間同士の挨拶に限らず、神霊、精霊や祖霊、超越的な存在と交信交流するのに大切な役割もする。
 手のひらや指は、その向きや角度や位置によって、人体の作用力や集中、呼吸、自分の存在の意味などが変化してくるので油断はできない。
 ともあれ、自分が〈外〉の、人間を含んだ何ものかへ働きかける。また〈外〉の何ものかから自分へと働きかけられる。その最も大切な発信と受信の人体の装置が手のひらと指の動きで形成される。












                               続く