坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

「〈やわら〉を入れる 」《5》

揺さぶられた言語宇宙

 この連載で本来続けてゆくべき「文武」のテーマの文が中断し、「緊急寸言」と銘打って不規則な載せ方等もした。前回は本来のテーマに近づけたが…。
 実は、なかなか書けなくなってしまっていた。先に練った大体の構想はあるので、それに沿って書こうとすると、何ページかは進むがすぐに行き詰まる。見直すと中途半端に気のきいた、浅薄なものに思えて堪えられなくなる。こんな筈ではない、と思いつつ完全に袋小路に入り込んでしまった。
 今回、ようやくあることでその袋小路から脱け出せた。そしてそのことは気付いてみるとまさに本文のテーマ、「文武」や「やわらを入れる」にふさわしい、と私には思われるのである。
 そんなわけで、今回も震災にかかわる今の話題にも触れるが、それが通常のテーマに一致融合するからである。
 地震津波で、声を呑み、言語を絶したその後、息もつかせぬ追い打ちで原発の不祥事で、私たちは心底からというよりまさに〈身底〉、少し固い表現を用いると、存在の大本から揺さぶられたのだった。もちろん災害の現地や近接の人々程それは直接的である。けれど、東京(ここだって〈近接地〉と言えなくはないが)やずっと西の方にすむ人々も本質的には変わらない。
 ある著名な小説家が十年以上前に出版したそのデビュー作を全部書き直したという。身底あるいは心底から揺さぶられて、彼女の言葉と想像力が問われ直したのだろう。私も何人かの文筆家と交流があるが、その一人は震災と原発以来ずーっと左腰に異和感を持ち続けている。八十歳近いその人はそれまで何回か腰痛を経験しているがそれとかなり異なって、どうも単に生理的な痛みでもない…と気にしておられる。もう一人は作詞でも活躍する女性詩人で、逆に彼女は何と3.11から数日も経ないで、書き上げていた掲載予定の作品を取り下げ、新しい作品を一気に書き上げてしまった。
 反応は人それぞれだ。けれどなぜ、言葉に敏感な人々がこうして常と異なる状態になるか。それはプロ、アマ問わない。
 〈アポリア(袋小路)〉に陥った私自身の場合を今考えると、どうもそれは言葉が、東北地方の人々に、また原発の影響を受ける東日本、またそれ以外の日本人と共有されている、そのためではないか、と思う。日本語なのだから当たり前である。
 けれど、具体的に、たとえば〈海〉という言葉一つをとっても、あの震災の後では、それ以前と、そこに含まれるイメージが相当異なってしまった。〈海〉という言葉から立ち上がるもの、それに無頓着では言葉は使えない。もちろん〈海〉という言葉は何千年という歴史を含み、過去の日本人がその響きを共有してきた。そのようにして言葉、〈海〉はある。そして、今、その〈海〉は新しく、痛々しく、荒々しく、禍々しくもある時を含み込んで立ち上がっている。海の詩を作る日本の詩人は、その響きに身を揺すぶられずにはおられない。そしてその〈海〉の泡立つイメージはそう簡単に納まる筈もない。いくらイメージは自由といっても、のっぴきならぬ現実に揺さぶられているのだ。
 すべての言葉は、一人密室に引き蘢って秘かに紡ぎ出す言葉であっても、人々によって共有されている。言葉は本来、世界に晒され世界と呼吸している。
 あのスマトラ島沖での大津波では 三十万人近くが死んでいる。中国の四川省の大地震でも大量死が出た。スマトラ地震では日本人の犠牲者も出たが日本の文筆家の人々は今回のようには反応していない。このアジアでの震災や津波は距離があったり国が異なることもある。けれどそこに言葉の共有性の濃さが異なることも大きく影響してはいないだろうか(異なった言語同士なら、たとえば翻訳を通しての共有性もあるが、それはずっと薄くなりがちである)。同じ日本語を用いる、ということが、どんなに〈濃い〉関係か、私たちは普段そう意識しない程、言語という空気環境の中に密に溶け込んでいる。その空気の波乱は、深く影響して、心と想像力を揺さぶり、とくに言語の表現を専らにする人の言語世界を揺する。


空気も〈共有〉されている!

 しかし、今回、私が、ようやく袋小路を脱けたもう一つの要因 ― 実はこの方が大きかったのだが ― は言語世界の空気というより、実際の空気のことである。フクシマから発せられる放射能の空気汚染だ。空気こそ、まさに直に、直接に、私たちを取り囲み、私たちの身の中に出入もする。その中に放射性物質が入り込めば細胞をミクロのスケールで傷つけ、その身体的災厄の現象は癌や遺伝子異常の相で何十年か後に出る。
 空気は誰の身も平等に包み込み、その流れである風は平等に吹き渡る筈だ。フクシマの放射能は、その本来晴れやかな自由で平等な自然の贈り物に剣呑な毒性として含まれた。今も、まだ予断を許さない。空気がそうだということは、水も、雨も、海も、魚も、山も、草も、赤児も…毒を含むことになるかもしれない。地水風火空(五大)はすべてそうなってしまったのだ。
 そう考えて、はたと気付く。私たちは、私たちを取りまく空気を〈共有〉しているのだと。もちろん元々〈共有〉していたのだが、それをそれ程は意識していない。身がふるえる程の危険なものを含むことによって、空気も、それを包含する空間も私たちは運命的に〈共有〉していることを、今更ながら気付かされた。
 もし、今度の地震津波の後のフクシマの不祥事に意味があるとすれば、それが私たちがそのことにしっかりと気付く機会になることだと思う。それではじめてこの事故に含まれる未来への意味が見えてくるのではないだろうか。そこに私たちの各々の立場による責任と覚悟の方向が見えてくる。
 そのように今更ながらも思い到ったとき、何日も迷い込んでいた袋小路は消えていた。
 
 そして――
 先に挙げた言語世界、後に触れた物質(空気)世界。すべての人間を取り囲み、すべての人に共有される二つの世界は、重なり合い、時に乖離する。乖離しつつ結ばれるのである。そこに「文武」、そして身体技法のベースもある。(つづく)



坪井香譲 畝傍山で舞う Kajo Tsuboi performed live at Mt.Unebi.



坪井香譲 畝傍山で天を仰ぐ His energy spread into the sky.


平成二十三年五月三十一日