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〈龍〉の幻想と現実
私たちが生を営む日常の場の時間と空間がザックリと切り裂かれたままになっている。その大きく開いた傷口はピクピクと未だにひりついている。膿み、瘴気を発し続けている───。
ギリシャ神話の怪物に沢山の頭をもつキマイラがいる。退治しようとしてその頭を断つと、そこから倍の頭が出てくる。果てしなく増殖するかのような化け物は、フクシマ原発のようだ。しかもこの怪物は、日本で発明されたあのゴジラのように口から毒気を吐く。街を破壊し回ったゴジラも放射能を口から吐いた。その誕生は水爆の実験とも深く係っていた。
今回の災厄は、神話の中の怪物を想わせるのだ。龍や大蛇の神話は世界中の民族の記憶の古層中に蠢きつつも鎮められてもいる。
西欧哲学の祖、ソクラテスが「汝 自身を知れ」と神託を受けたギリシャのデルフィは太陽神アポロンを祀る神殿だが、その前は大蛇ピュトンが猛威を振るっていて、それを鎮めたのである。アポロンは明晰な意識、理性を司るが、その前は昏い混沌的な圧倒的な力を秘めて蠢くものがいたのだ。
白川 静によると、改(あらためる)という字は蛇を殴(う)ってその忌まわしい働きを除くことだという。その上で、その場所に、より新しい秩序なり調和を見出そうということになる。平らげられたかのような〈龍〉はしかし、決して死んでしまいはしない。その後も様々な形で後の世に影響を及ぼすので、人々はそれを畏れ、祭ったり、像を造って記憶して、一定の形式をもってそれに応対して鎮め、時にその力さえ借りるかのようにして自分たちの平和や繁栄を支える力となるように願い、祈った。
巨大な自然の力、火山、河川、山、風、雷…すべて計り知れぬ波動、エネルギーのうねりである。そこに龍は潜み、渦巻くと古人は思っていた。その圧倒的な、人間の側からすると混沌的な力の隙間に私たち人間の場が成り立ってもいる。そのことを忘れてしまうことは、怖いことだ…。それを神話は物語る。
我国の古事記中のスサノオのヤマタノオロチ退治ももちろんそれに通じる。キマイラが火山の活動を象徴するのに対して、ヤマタノオロチは河川という説もあるが─。
「モノスゴイ」とは?
地の底深くからの波動と力─これが地震とツナミであったが、この太古からの地殻のうねりとその挙句の変動に対し、原発の方は「神話」の入る余地もない。一見如何にも「人災」のごとく見える。
けれど、現代科学の先端の英知と技術の粋を集め、物質の構造の粋とされる原子核から計算づくで引き出した力は、どうしてどうしてたやすくは飼いならされていなかったことを今回、実にシビアな形で見せた。
そこにも〈龍〉がいたのである。扱いを少しでも誤ると、瘴気をまき散らすこの巨龍が蠢き出し、キマイラのように多頭のどこを切っても頭が倍増して瘴気を吐く。また次に問題が奔り出す。地水風火空にそれが影響し、悪夢のごとく人の生活を脅かして止まない。
外の巨龍と内の巨龍が呼応してしまったかのようだ。海や大地というモノと、物質というモノの中の〈龍〉が目覚めている。よく言われるように、大和古語ではモノは物(ブツ)であると同時に、モノノケ、モノイミのように霊的な働きを示す。「モノスゴイ」とは本来こういうことではないか。
だから原発の事故をすべて「人災」で片付ける訳にはいかぬ、というのが私の考えである。人間がきっちりと処理しさえすれば原発はうまくゆく筈、という考えはモノスゴさに対して配慮していないと思うのである。“怪龍”についてのセンスを喪っている。神話に示す「自然と文明」の関係についての思慮が不足している、と思うのだ。
人類は手を替え品を替えて神話的な事象を繰返してきたといえる。
人は記憶によって物を考える。思考を支える最も基本になるのが記憶である。神話はいわば記憶の集合体である(むろん様々な政治的な力が働いて変更され、編集されたりもするが)。人は尋常ならざる事象にあたったとき記憶の公分母のような神話という鏡に照らして事態をとらえ、筋道をつくり、言語化しようとする。そしてそれを理解するか、理解したつもりにもなる。
もちろん、神話がいつも「鏡」になるかどうか、「前例のない」ことが起ったかどうかも問われなければならないだろう。新しい「神話」が生じないとはいえない。
ともあれ、神話に限らず、古典の語も同じように「鏡」となる。
最近、私は自分のペンネームの香譲の譲の字の成立を知ろうとして、偶然次の句に出会った。これも、今の事態に対してのいましめの句となると思う。(白川 静著『字訓』より)
天命(アマツヨサシ)は以って譲(ユヅ)り距(フセ)ぐべからず
─『允恭前記』─
天の命じる任(ツトメ)は避けることも遠ざけることもできるものではない。─そのままを受けるものなのだ。
現代人は、または現代の便利指向そのものの文明、文化観は、〈天命〉とそのまま対するのだという、大自然の中にある生命としての人間の本来の視力を濁らせ、胆力を褪せさせている。
この連載は文武随想録として第一回から「やわらを入れる」というテーマで武術と「愛」について述べようとしてきた。途中、震災とそれに続く原発の問題が生じて、時折「緊急寸言」を入れてきた。今回も、震災と原発について触れることになったが、しかし今回は特にその内容は自ずと本来の文武のテーマに接近してきている。
自然と人間のテーマがここにあり、それは身体哲学や武道の問題、そして言語の問題と密接に関わるからである。
なんといっても、武道や舞など身体技法の身体は「自然」の中に存在し、また同時にその身体の裡に「自然」があるからだ。この入れ子構造的な関係を別の視点から見ると、生な身体そのものと、それをとらえようとする想像力、そしてそれを表現とする言語などの三つが互いに連関して働いていることがわかる。空海の言う、身口意の三密であり、精神分析学のジャック・ラカンのいう現実界、想像界、言語界の三つである。
今回の震災や原発のことも、私が志向してきた身体技法や武道の実践も、この三つの側面からとらえられるべき課題である。(つづく)
(武道・合気と柔の私の動画も少しずつ紹介してゆきます)
坪井香譲「やわらげの武道」Kajo Tsuboi "yawarageno budou" 2011.5.2
平成二十三年五月一日