坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

「 〈 やわら 〉 を入れる 」 ━ 「 武道は愛 」とは? 《1》

竹内敏晴氏と柔術

 一昨年亡くなった演出家の竹内敏晴氏の父方の祖父に当る人は柔(やわら)、柔術の達人だった。どんな風だったのか、去年出版された竹内氏の語り下ろし自伝『レッスンする人』(藤原書店)に、その一端が出てくる。以下坪井が要約。
 …ある時、宴会から帰ってくる途中、祖父は七、八人の男達に囲まれ、「この前の礼をするから覚悟しろ」と言って一斉にドスを抜かれた。祖父は「まあ、待て」とぶら下げていた一升瓶の口をとって、そのままガーッと飲み干した…あっけにとられたやくざ者を尻目に、パンパーンと手を打ち、下駄をポンと払って「さあ、こい」といったら、みんなワーッと逃げてしまった…
 調子のいい講談か時代劇の映画の一シーンのようだが、この祖父は柔術の天神真揚流という流派の名人で、この流派は柔道の開祖嘉納治五郎も習ったことで有名である。道場は当初神田に後年は板橋にあった。
 実はこの竹内氏の従兄弟の一人が私の高校時代からの親友で、私は時々この達人のことをその親友―石原君―今は農政学の学者として活躍している―から聞いていた。
 石原君からこの大活劇のことは聞かなかったが、一つとても特別なことは聞いていたのである。それは、この祖父が、武術では一般に小指の締めや使い方が大切だと強調されるが、一番肝要は〈薬指〉だ、と言っていたというのである。
 何十年も前、石原君から聞いた当時は何のことか見当もつかなかったが、あることをきっかけにこの薬指の活かし方がどんなに大切か、単に柔術や剣術に限らず、身体の技、瞑想などにどれ程の意味を持つのか、私の指導する身体技法で漸々に明らかになってきた。(註1)

 さて、演出家竹内氏の活動の一つは必ずしも演劇というジャンルに限らぬその「ワークショップ(参加者の実際の体の動きを伴う講習)」にあった。
 氏は、幼児期から重度の難聴に悩まされ、言葉も充分に表現できずに苦しんだ。それは青年時代初期まで断続的に続き、はっきりと言語で人と交流できるようになったのはようやく四十代半ばになってからという。この聾唖傾向で人とのコミュニケーションに苦悩したことが、やがて、言葉をどうあらわしてどう人と出会うか、あるいはその時の身体の状態はどうなのか…等々、根源的で微妙なテーマに氏を向わせた。演劇では木下順二の『夕鶴』で名優山本安英の「ぶどうの会」演出にもたずさわるようになっても、常に氏にはこのことばと身体とコミュニケーションのテーマが課題になっていた。そして野口三千三の野口体操との出会いや氏が少年時代からすさまじい熱意で取り組んでいた弓道などの体験と哲学的思索等を組み合わせたようにした本『ことばが劈(ひら)かれるとき』(思想の科学社)が著された。それまでは類書がない、ハンディの体験も色濃く映し考察した言語=身体論で私にも印象深かった。

 その竹内氏が、柔術、そして後で述べるように弓道には鋭い考察をしながら、剣術(道)にはまったくといってよい程否定的な見解、というよりもむしろ嫌悪の情をこの『レッスンする人』では表している。(柔道については、そのヨーロッパ的な強者の論にはまった勝負観に否定的で、それは、私としては一応納得できるのだが。)
 氏はある時参禅を志して、臨済宗の著名な禅師大森曹玄師を紹介されようとしたことがあった。大森師は直心影流という古剣術の型を伝えている剣術家でもある。禅では山岡鉄舟の影響も濃いが、鉄舟も、もちろん、一刀流を極めた挙句、「無刀流」を開いた程の人である。
 ところが、竹内氏は大森師のことを、「剣とは人間にとってなんであるかを根源的に問い、これを捨てぬのならば、執着、妄信…。いかに深い悟りを開いたとしても、所詮それは人間の運命とはかかわりのない、特異な心理的な境地に過ぎぬのではないか?」と厳しい。「江戸の町人が武士の帯刀を「人斬り包丁」と呼んだ。これが権力の源泉であった…」ともいって、刀ならぬ言語で斬り捨てようとするのである。
 『レッスンする人』では他にも剣道家への批判が出てくる。柔術は肯定するが剣や剣術は頑として容認しない竹内氏がここにいる。
 氏は少年、青年時代、聾唖のこともあって柔術はほとんどできず、弓道に打ち込んでいた。その技倆は、実に大変なものだった。弓道の競技などでは、一纏めに二十回的を射るが、二十回皆当てるのは容易ではない。竹内氏はこの皆中を何回も成し遂げてもいる。絶好調だと、引き絞った時矢を放す先に、矢が的に当たっていることが前以てはっきり分かった、という。的の方に延ばした手の肘までが的に入ってしまっているので、そうなると外すことがあり得なかった、と述べる。
 的の芯に当てた矢のその次の矢が、前の矢筈を真二つに裂いて、またその次の矢が…と四射も続けたことがある、という。これは弓道をしている人なら賛成してくれると信じるが、伝説的な近代の弓の達人阿波研造師が行なったことを思わせ、尋常でない。(ついでながら先の竹内氏の従兄弟で私の友人石原君も竹内氏と道場を共にした訳ではないが、同様に次の矢が中心に当たった前の矢の筈を割ったことが何回かあるという。これは血筋なのか、と思う程である。)


(註1)
 薬指の用い方に通じる原則が世界中の踊りや化粧法の手づかいや祈りのポーズなどに活かされている。おそらく多くの場合それと気づかずに習慣化されている。たとえば能の扇を振る所作での薬指の働きや伝統舞踊「さのさ」の手振り、インドのヒンドゥー教で額に印を付けるときの指づかい、歌舞伎俳優の口紅の付け方や空手のこぶしの握りしめ方…。仏教やキリスト教の聖像の手印の組み方…。呼吸の深さや発声法にも薬指がかかわってくる…。このことは改めての機会に詳しく紹介したり、実践法を公開講座したい。



世界と自己を出会わせる 〈 弓 〉

 けれど、竹内氏の弓道への傾倒は的に当てるためではなかった。「左手に弓を握って前に押しながら、右手で弦を引く、すると世界が水平に無限に広がってゆく,  , , , , ,  ,  ,  , ,  ,  , , , , 、それが広がり広がってあるところで、ピューと矢が飛んで行く感じ」そこを求めた、というのである(傍点は坪井)。両手で左右に開いての水平だけでなく、体の各所にも水平と垂直方向に同様の働きがあり、「五重十文字」という。こうしてタテ、ヨコ無限に広がってはじめて当たる存在感、と竹内氏は語る。
 実は、これと同様のことは、私の行なう武術(剣術と体術を工夫したもの)にもたくさんある。少なくとも私がそうした武術を行なってきたのは、武道の術と形と動きが、自分の存在(イノチ)、身心を、世界との広やかでやがて自在な交感に導いてくれるからである(このことはもっとその内容を述べなければ分かりにくいことかもしれないが、それは追々述べてゆくつもりである。)。
 ともかく竹内氏は少・青年時代に弓を通して相当程度にそれを体感していたのである。そのような竹内氏が剣術について否定するのはなぜだろうか?
 氏のように著作を出し、演劇だけでなく鋭敏な身心論などで影響力を持つ人の言葉としては納得しにくい。ここではっきり疑問を呈しておきたくて、私は拙い筆をとったのである。
 しかし、なぜ竹内氏が剣について否定的なのか、いくつかの理由は『レッスンする人』を通しても窺えなくもない。
 竹内氏は一度だけ祖父の道場で柔の型の手ほどきを受けたことがある。それは大きな木刀を振り上げて向ってくる相手に対し、自分は左に開いて相手の腕をとって捌く、という型だった。相手の剣や兇器を取って使えなくする。
 氏は語る―「「やわら」とは第一に素手で武器を持つ相手に立ち向かうすべであり、第二は勝負とは別の次元で相手と問答できる構えである。やわらは、武器を持って向ってくる相手にから手で向い、その相手の勢いをむしろ利用してかわす。これを倒すのではなく、押さえて、これと対等に向かい合って立ち対話の始まり得る地点にまで相手と自分とを導く振る舞い」だ、と。
 これは、少なくとも私にとってはとても魅力あり、双手を挙げて賛同したい、柔術観である。


江戸開城勝海舟が「やわらを入れ」た

 そして、竹内氏は非常に面白い「やわら」説を紹介している。
 これは氏の母方の祖父達(江戸町人)から伝えられたという。明治維新の前、江戸開城の際のこと。幕臣勝海舟は、新門辰五郎親分などの手を使って官軍が侵入したら江戸中を火の海にし、町民を船で逃がすべく手筈を整えて、官軍の総帥西郷隆盛を唯一人江戸城へ呼び(西郷の方がまるで降参したみたいにと、彼ら江戸の庶民は考えたという)、町と町民を無血の状態へと救った。これを「やわらを入れる」という。「ヤキを入れる」の反対で、こわばらないで仲よくやろうや、ということだった。ここに柔の骨法(極意)がある、という。
 竹内氏はここでさらに「憲法第九条、戦争の放棄」につないでゆこうとする。この憲法を日本人の多くが受け容れたのは一つには素手でやわらのように立ち向かう身ごなしの暗黙に昔の長い伝統があってこそ、これが受け容れられた。「素手で相手の力をかわし、かえってそれを利用して押さえ、対等に向かい合う。それによって生活を安堵し、「平和」を生活の中でつくりだしてゆく、それが庶民の目指すところ」という氏が、氏にとっては戦争についてあまり意識的に反省していないように見える剣道家民族派がたまらなく嫌だったのかと想像はできる。
 戦時中にいわゆる「武」の論理を何のためらいもなく露出するように揮った軍人達の振る舞い振りも『レッスンする人』にも書かれているが、それはとても痛切に身にしみたことだったろう。
 だが、嫌悪感の混入した批判は、個人の感情としてはそうだったろう、という他ないが、それが妥当性をもつとは限らない。
 実は達人の祖父も、農民を祖とする町人の家の出だった。つまり人斬り包丁で権威付けするサムライの出ではなかった。そう語る氏にはいわばお上への反感と共にある誇りみたいなものがどこかにあったのかもしれない。あるいは大戦後多くの知識人が影響を受けた「唯物史観」や「階級闘争史観」の圧倒的な潮流に影響されていたのかもしれない。
 けれど、実は、氏の従兄弟石原君の母親には小太刀の技が伝わっていた。これは達人の祖父の伴侶、つまり石原君や竹内氏の祖母に当る人から伝わったものである。彼女は福井のある藩の勘定方の武士の出で、たしなみとして小太刀が伝えられて嫁に入ったのである。つまり竹内氏には人斬り包丁のサムライの血も、町人のそれに交じって流れていたのだが…そのことには氏は一切触れていない。理由は判然としない。
 この石原、竹内氏の祖母がどのようないきさつで、その時は明治に入っていたとはいえ、農民、町人出の柔術家のもとに嫁したのかは分からぬが、柔術家たるもの、侍の剣の型や技に興味のない訳がない。剣を奪うにしても剣の捌きの研究を怠るわけにゆかぬのである。そのことと、この祖母の婚姻がどの程度関わったかは、小説家のように想像を逞しくするしかなかろうが、次のようなこともある。
 祖父は一本背負いの名人として知られていた。スポーツでないので、多くの場合、刀や武器を手にしていただろう敵に、背負うためにスッと後ろを見せたときは、相手は浮き上がるか半ば投げられてしまっている状態にならなければならなかった、と竹内氏も述べている。こうした技は剣捌きを納得していないのではむつかしいはずである。
 また、多くの武術家は賛成すると思うが、柔術の足捌きと剣術の足捌きは共通原則が支えている筈だ。足捌きだけではなく体捌きも剣と体術は共通するところが非常に多い筈だ。 
 竹内氏は、聾唖など体の問題で柔術のけいこはたった一日だった、と述べている。身近にあったとはいえ、柔そのものもあまりご存知なかったのではとも思われる。
 但し、竹内氏はその後、学校教育や演劇の世界で、柔道、銃剣術、フェンシングなどの指導を受けたり、それらに触れる機会があり、その度ごとに、それらの指導者や経験者をビギナーである竹内氏が負かしてしまう程の技を示してしまうのである。氏は「相手の隙が見えてしまうので、そこに突きを入れるだけ」とも述べている。
 私は、「やわらを入れる」という江戸の町民―竹内氏の考え方に大いに感動し、賛同する。
 だが竹内氏と異なり、実は剣術にも「やわらを入れる」ことがあり得ることも強調したい。それどころではない。勝海舟のことである。

  ─ つづく ─