坪井香譲の文武随想録

時に武術や身体の実践技法に触れ、時に文学や瞑想の思想に触れる。身体の運動や形や力と、詩の微妙な呼吸を対応させる。言葉と想像力と宇宙と体の絶妙な呼応を文と武で追求。本名、繁幸。<たま・スペース>マスター

「コロナと人間の知」(1)

顔をマスクで覆う私たち  色々なことが覆われている

 「コロナ」は未曾有な状態に人類を封じているかのようにも思われます。

 その特色の一つは雲行きが非常に「曖昧」だということでしょう。曖昧模糊と言った方がいいくらいでしょうか。

 大体、この病気の発生の時も、従って初発の場所も、中国武漢とされますが、公式には明晰に未だ特定されていない。それで、中国とアメリカ等の奇妙な非難合戦となってしまう。欧州と日本等の病状も異なっているのでコロナウイルス自体も変異したのではないか。なぜ日本や台湾、韓国等で死者が少ない? BCG接種の習慣の差? 諸説渦巻きます。

 感染者数は日々発表されるが、その元になるデータは一体、何を基準にしているのか。世界でも各々異なるし、日本の発表も基準が明晰でない、曖昧です。

 私たちはフクシマの時に、早急に政府が国民の安心のためにということで、基準値をそれまでのものから高めに変えたことをよく覚えています。その根拠は少なくとも一般の素人、大衆にはなかなか判断しにくいものでした。その前には大戦中の大本営発表というものがあった。日本が各地の戦闘で敗れて不利なのに、たとえば味方の沈没した戦艦の数や戦死者を少なく、敵(米国)の損害を多くして偽りを発表することが頻繁に行なわれました。国民の戦意ややる気を挫けさせないためという「大義名分」もあったのでしょう。人心を安んずる…という名目で偽りを重ねるーーむしろ「善意」さえ伴って!というのは為政者のよく行なってきたところでしょう。「民は依らしむべし、知らしむべからず」との「原則」でしょうか。

 その上、今般はウイルス自体の存在が生物ではない、とする説もありますが、生物と無生物の間、というか生物未満の生物というようなあり方としてもいます。生物史的に、細胞膜をもつ生物よりも以前から存在した、という説もあれば、そうでない、生物の歴史の中で途中で生じた奇形的な半端者、という表現もあるようです。まさに曖昧です。何もかも、現象としては甚大な影響を人類に、地球全体に与えるかのようでいながら、少なくとも私たち人間にとっては正体は鮮明ではない印象です。これから先、新型コロナウイルスはどんな変容をしてゆくのか、予断を許さないという信頼すべき医学者の説も聞きました。

 こうして、地球全体に繁殖してきた人類を覆う雲のような変容を遂げてゆく曖昧模糊さ…。

 私は以前見たタルコフスキーの『惑星ソラリス』という映画のシーンを思い起こしました。それは人の居る惑星の表面全体を「海」が覆っている筋書きです。その海は知的な存在ですが、どうしても人類とのコミュニケーションを拒んでいる。それは、海のように大きくそして何らかの知性はあるが、結局は半ば雲のように曖昧に人と世界を覆うのです。

 正体を明かしそうで明かされない…。惑星ソラリスの海と、雰囲気としてはとても似ている…。

 

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惑星ソラリス』の海

youtu.be

 

人間が招き寄せてしまった

 しかし、一つだけかなり明確に言えそうなことはある。

 それは今のこの曖昧の雲の世界は、人類が招き寄せたことの一つである、ということです。人類がその文化、文明を発展させ、知力によって自然に働きかけ、徹底して自然を利用するだけでなく、容赦なく己れ達に服従させ征服し、すべてを吸い尽くそうとした所業の挙句ではないだろうか。密林深くや地におそらく太古から眠っていた生き物や土壌。そこにいたウイルスを力と知力で引き出して、利用しようとして反転、人類は大変な自らの苦しみの世界を招いたーーそういう図式は当たっているのではないか。

 

 文明、文化の進化、産業の発達、科学技術の飽くなき進展、それらに支えられたグローバリゼーション等々の大元を支えるのは、言うまでもなく人間の知能、知力でしょう。

 知力に限らず「力」には抗しがたい魅力があり、時に制御し難い「魔」力を底知らぬ程に有しています。 

 権力、体力、資本力、美の力ーーこれらはどこまでも果てしなく欲求されがちです。時にはそれらの「力」の本来の目的さえ越えて、果てしなく焦がれ求められてゆきます。

 最近、パワー・スポットという言い方をされます。元々は、神社や寺、聖地など、「スピリチュアル」な雰囲気や憧れや畏敬を感じる場所を「パワー」と呼ぶようにもなった。これは私に言わせれば「力」の魅力や魔力に抗しがたい、現代人の傾向を物語ります。「パワー」と言ってしまうと何とも分かりやすく思われるのです。私自身はそんな言葉遣いはしたくない。しかし、「力」への渇望は人類の止むことのない衝動の一つです。

                                      (続く)